#1 『TOHO WAR』 01

■守矢神社
 黄昏刻とともに拡がりはじめた濃霧は次第により深さを増してゆき、宵闇の中で星々を喰い尽くしていった。
 夕焼けを帯びてまるで血の色のようだった霧も、今は月の光の下で空中にとぐろを晒している。

 こんなに星のない夜空はこちらではついぞ見たことがない。まるで外の世界のようだねと神奈子が呟くのをみて、早苗は頷いた。
 星々が、遠い。たしかにこんな感覚で夜空を見上げるのは、幻想郷に来て以来はじめての出来事だ。空を飛ばずとも、地上にいながらにして手を伸ばせば直ぐにあの瞬きに届くような、昨晩まではそんな星空が続いていた。
 外の世界はあんなにも夜が明るく、穢いものだったのだと、こちらにきてから実感した。
 呼吸する。
 外の世界の澱んだ空気を思い出す。どこか懐かしくもあり、少しだけ寂しくもあった。

「智恵子は東京に空が無いといふ、
 ほんとの空が見たいといふ。
 私は驚いて空を見る。
 ――」



■彼岸(地獄)
 夜明け前。死神・小野塚小町は上司の悔悟棒によって叩き起こされるといういつも通りの、しかし乍ら時刻を考えれば前代未聞の起床を迎えていた。
「まさか四季様が寝落ち朝駆けするひとだったなんてっ。でもあたい的には大歓迎ですっ」
「それを言うのなら『夜討ち朝駆け』です。寝惚けてないで起きなさい小町。緊急事態が発生しました」

「首都圏担当の閻魔達との定時連絡が突然途絶えました。こちらからの応答にも依然沈黙したままで、上層部はこの異常を即座に解決すべく要員の派遣を半刻前に決議しました。そう、私たち二名のことですが」
「はあ。でもなんで四季様とあたいに白羽の矢が? 関東近域の閻魔様たちのほうが現場に近いでしょうに」
「我々が最も近場だからです」

「そう、異変は何時だってこの幻想郷で起こるものですよ」



■幻想郷・中央部
 一夜が明け、幻想郷に突如として出現れた半径三十kmに及ぶ暗雲状円筒形結界。地上に直立し天上へ達する巨大にして異様なそのスガタは幻想郷の何処を問わずして瞠目することが出来、圧倒的な存在を知らしめた。

「――これは異変ね」「異変だぜ」

 即座に腰を上げる博麗の巫女&火力の魔法使い。しかし目の前の『雲』はあらゆる物理的・魔力的な接触の一切を拒絶する。
 一計を案じ、萃香の能力を借りて部分的に『雲』を霧散して結界を弱め、三人は内部への突入に成功する。

 そこには外の人間が『首都』と呼ぶ、東京と周辺都市一帯が無人の状態で広がっていた――。



■タイトル:【東方Project】×【首都消失

『TOHO WAR 〜 東方儚月抄・前夜』



■円筒形結界内・東京
「うぉぉっ。なんだこりゃ。壁に吸い込まれる!?」
魔理沙〜、建造物の谷間は気流が厄介なことになってるからもっと高いところを飛んだほうがいいわよ」

 結界に『穴』が開いたのを機に、続々と首都入りする幻想郷の住人達。

「御機嫌よう。外は忌々しいくらいに晴天なのに、この中はお散歩日和の曇天ね。気に入ったわ」
「よおレミリア。まさかお前、ここに別荘でも建てるつもりか?」
「なんだってこんな殺風景なところを避陽地にしなくちゃいけないのよ。だけど、そうね――フランの遊び場には丁度好いと思わない?」

 船橋近郊・谷津のバラ園にはフラワーマスター・幽香が出没し、永田町の国会図書館を目指す動かない大図書館・パチュリーは途中で力尽き立川の路上で小悪魔による介護を受けていた。秋葉原ににとり。幻の新橋駅に酔い潰れた萃香。上空を烏天狗が舞い、地上を白狼天狗が駆け抜ける。電信柱で足をとめる。

 一方、中心部へと妨害もなく突き進む紅白と黒白。
「って、中心ってどこらへんよ。いつもだったら適当に飛んでれば敵が出てきてラスボスまで一直線だっていうのに」
「まったくだぜ。こんなことなら早苗も連れてくるべきだったな」



■東京・湾岸
 水路を廻り、東京を視察する閻魔と死神。遠目に望む巨大都市はさながら乱立する墓標。
「完全に無人ですね。いや人どころか都市鳥や犬猫、虫の一匹もいやしない」
「気がついたのはそれだけですか。小町、歩道と並んで街路樹が生えていたでしょう。あの木々は生きていましたか?」
「いえ。おそらく、幻想郷に出現したこの街は贋物。謂わば本物の影の具現化したものと考察します。だから生きとし生けるものはおろか、彷徨える死者の魂すらもあたいらの『目』には映らない」
「――そう、この街は虚構。幻。まやかし。嘘だらけのこの空間(セカイ)には、空に鳥はおらず、地上に民はおらず、水面の下に魚はおらず、」

「ならば何故、奈落(地下)に蓮阿弥陀仏が冥っている?」

「! まさか本物」
「違います。東京が仮初めならば、同様にあの相殿神(あいどののかみ)も分身。厄介なのは日本の神の特徴として、力も気質も本体と同等ということです」



迷い家(マヨヒガ)八雲邸
「……ゅ……、……ゆ…り……、…様、――紫様。お起きください」
「――夢を見ていたわ」

「むかし、昔の幻想の闘い」「美しき月面戦争の夢」

「当時の私は慢心を相方に私の全知全能を以て優雅に月の民に挑んでいった。そして無様に逃げ戻ってきたわ。あんなにも容赦の無く、完全で、文句などつけようも無い、心地好い敗北なんて滅多に味わえるものじゃない」
「――」
「で? 冬眠中の私を叩き起こすほどの火急の事態とは、いったいどのようなものなのかしら……?」
「戦争が勃発しました」

 事実だけを簡潔に、紫の式は述べる。「お目覚めください紫様。幻想郷は現在、何者かによって侵略行為を受けております。この状況は従来通りの異変などで済ませられるものではない、明らかに戦争です」



迷い家(マヨヒガ)八雲邸
 地上に降り立った季節外れの積乱雲を想起させる、白雲状円筒形結界。

「初期状態ではあの結界は雨雲のようにドス黒かったのですが、博麗霊夢らが侵入のために『穴』を開けてから以降は徐々に密度が低下しています。『結界』は物理的・魔術的による攻撃を拒む性能を維持したまま拡散し、このままでは博麗大結界と接触することになるでしょう」
「貴女の見立てだとそれだけでは済まないって訳ね」
「はい。接触の際、大結界に浸透してあの『雲』は博麗大結界を乗っ取る。博麗大結界そのものとなります」

「外の世界に再び首都領域が復活することがあるとして――出現するのは東京ではなく、閉ざされた幽世より強制的に移動させられた幻想郷そのものになるでしょう」

「私――」「とても眠いわ」

「紫様っ」
「わかってる。わかっているのよ頭では、今が非常事態だってことぐらい。事態が逼迫しているってことぐらいは。でも眠いの。とても眠いのよ。ああやられたわ。まだ誰だかすら判らないけれども、もしこの状況が敵の術策の一つに過ぎないとしたら、ものすごく強敵よ。現に今の私じゃ、思うように力が出せないし完全に頭が回らないもの」
「紫様――」
「だから、これは命令よ」「手加減抜きで私を殴りなさい」

「このままでは敵には勝てないわ。私は冬眠から今一度覚醒する必要がある。貴女の、強烈な一撃を頂戴、一切の手加減の無い問答無用の苛烈な一撃を」
「ですが主人に手を上げることなど、私には、」
「今の私は冴えていない。とことん冴えていないわ。でもね、とてもお寝ボケな脳細胞の一つ一つが軋みをあげているのだけはよく解る。いいえ、脳細胞だけじゃない。八雲紫を構成する全身の細胞が悔しい、悔しいってこの八雲紫に訴えかけている」

 紫は泣いていた。
 ひどくだらけきった姿で。
 家族同然の主従の間柄とはいえ、ヒトは(妖怪だが)こうも無様なスガタを曝け出せるものかと、普段の藍なら諌めるところだが――主人の心中を察し、――臓腑が、芯から沸騰した。

 orz ← 紫が泣いている。

 悔しい、悔しいと怨々粛々と繰言を唱えながら、狂おしいほどの怒りで身を細々と震わせながら、大妖怪・八雲紫が従者である式の眼前で憚ることなく、途切れることの無い涙で畳を濡らしている。その爪は獲物を切り裂くものだ。それが畳を引き裂くことに終始していることが酷く、我慢ならない。

 それがどれほどの屈辱か、あってはならないことなのか――、八雲藍は血の気を失うのもかまわず拳を握り締める。

 ああ主人が泣いている。だれよりも幻想郷を愛する主人が、傍迷惑で傍若無人で悪巧みと怠惰が大好きでどうしようもない、ああ本っ当にどうしようもないぐーたら大妖怪だが、自分にとって誰よりも畏怖敬愛すべき主人が(橙の場合は『愛』とかではなく、あえて表記するなら『ら、ぶ』)、あの八雲紫が泣いている。
 この涙を誰にも見せてはならない。今なら藍は躊躇うことなく両の眼を潰すことも厭わない。
 だが、それは後回しだ。今為すべきは、溢れる涙を、

「――わかりました。参ります」

 すっくと、天狐。

「(霊夢の声色)紫(アンタ)なんか大っ嫌い!」
「ぶほぉっ」

 驚きの車田ぶっ飛び。

「き、効いたわ。今の一言、どんな一撃よりもたしかに効いたわ――っ」「それにしても霊夢声帯模写なんていつの間に身に着けて」
「妖狐ですから」



迷い家(マヨヒガ)八雲邸
「あらためて現状を再確認しましょう。正体不明の雲状結界の出現。内包構成要子は外の世界の首都・東京と周辺領土。霊夢魔理沙は之を『異変』として解決すべく結界内に侵入。同時に『雲』は第二段階に移行、拡散して博麗大結界に接近中。目的は大結界の攻略と推測。敵の正体は不明。最終目的は幻想郷の本土出現。これは幻想郷の崩壊と同意である。――博麗大結界が解除されたとして、再構築にどれだけの刻を要する?」
「私と紫様と、博麗霊夢の力を以てしても七日。絶命覚悟で尽力を尽くし最短で二日半かと」
「遅い。日本の『首都消失』状況は世界の注視を浴びているわ。五分で本土の残存国家機関と在日米軍が押し寄せてくるだろうし、コンマ一秒ほどの『出現』でもメディアや衛星の記録に残る。――その後に起こるのは外の世界六十億の人間の欲望と、我々妖怪との死滅戦よ」
「ならば我々の防衛戦略とは、博麗大結界の断固死守」
「甘い。大結界への接近を防いだとしても、大気を満たした『雲』が幻想郷諸共『首都』を本土に出現させることは目に見えている」
「ならば『雲』のこれ以上の拡散阻止。のみならず、制圧下にある領域を奪還して『雲』の範囲を後退させ、尚且つ固定させること」
「そういうことを得意とするあの鬼娘は?」
「『雲』に穴を開けた後、幻想郷内での目撃情報はありません。伊吹萃香は霧散して雲隠れすることができますから情報はあてにはなりませんが、今回の場合はいち早く『雲』の状態に気がついて対処しているでしょうから、おそらく内部に侵入しているものかと」
「判っていた事だけれど、完全に後手後手ね。先ずは鬼の確保。――これは土地勘のありそうな守矢の巫女が適任ね」
「紫様の能力でもあの『雲』には効き及びませんか?」
「無理ね。試してみたけれど、境界を弄くるどころか触れた瞬間に弾かれてしまったわ」創傷を帯びた右掌をかざして見せる。「力尽くで『穴』を開けることは可能だけれど、それだけでは意味がないし。何より、私まであの中に入っていってしまえば博麗大結界と『雲』の監視役を貴女一人に負わせることになってしまう。ところで、あの中へのこちらからの侵入者は把握しているかしら」
博麗霊夢霧雨魔理沙。これに随伴して伊吹萃香(推定)の三名に、紅魔館の吸血鬼姉妹以下数名、物見遊山の妖精妖怪多数、天狗二名。それにこれは不確かな情報で裏付けはまだなのですが、死神と閻魔様の二名が……」
「っ、ちょっとどうして閻魔様が、」
「鬼火どもの申すところによると、首都担当のヤマと連絡が途絶したとかで――紫様?」
「それは表向きの要件ね。そうか、確かにあの地には魔方陣が十重二十重に交錯して築かれているし、『雲』の結界の所為で幾つか遮断されてもいる。魔法陣に綻びが生じている以上、是非曲直庁が動くのは当然ね」
「紫様。それはどういう」
「東京は巨大な霊地。そして古来より呪術都市として成立してきたわ。何よりあの地には、厄介な祟り神が祀られている。まあ、そちらは閻魔様に任せるとしましょう。それで動いていないのは守矢神社と永遠亭ということでいいのね」
「いえ、白玉楼もまだ」
幽々子ならとっくに動いているわ。この時期、私が冬眠していることをしっているわけだし。そうね、これで後手の先を取ることはできるか」

「ところで紫様。敵はいったいどうやってあの『雲』を幻想郷内に持ち込んだのでしょう。紫様が冬眠中だったとはいえ、私や博麗霊夢に気づかれることなく博麗大結界を越えての侵入は不可能なのでは」
「幻想入りルールの盲点を突かれたのね。外から幻想郷に入ってくる為には、三つの方法がある」

 一、博霊大結界をこじ開けて無理矢理入ってくる
 一、外の世界で時代遅れとなり、人々の記憶から忘れ去られること
 一、外界で存在が“完全否定”されている、にも関わらず人々が求めてやまない品々

「あの街には公的には存在の否定されたもの、一部では有るとされているのに社会通念上は存在してはならないものなどで溢れかえっている。そういった物の関係者が代替わりしていくと、否定され続けた存在が本当は実在していることなど、すっかり忘却されてしまう。あの国はそうやって多くの物事を忘却することで先進してきた――もしそれらの『物』がいちどきに幻想入りしてきたらどうなると思う?」

 一つの街が再構成される。
 『雲』に覆い隠されているのは、東京そのものではなく、幻想が寄り集まって実体化した映し絵の『東京』。

「多分それだけじゃないでしょうね。幻想郷に張られている『幻と実体の境界』の作用を知った何者かが、幻想入りする前の段階で一部を戦後復興直後の東京に分散蓄積するような罠(プログラム)を秘密裏に仕込んでいたとしたら。それが一定量に達したところで集積した外の世界の遺失物、その全てを幻想郷に一気に叩き込む。そうすることで一大都市を丸ごと幻想郷内に出現させる。滞積物を全解放したところで、今度は東京に仕掛けられていたもう一つの罠(トロイの木馬式ウィルス)が起動する。幻想郷に出現した東京(サーバー)と外側の世界の東京(クライアント)とで、同時に『雲』が展開するように」

「侵攻計画は五十年も前に進められていたと?」
「五百年掛かりの大計でも驚かないわね。――貴女は守矢神社へ出向いてちょうだい。私は永遠亭に赴くわ」
「宇宙人? 彼の者たちは敵ではないと、そうお考えですか?」
「蓬莱人が敵だとすれば、昨晩のうちに竹林は炎上しているでしょう。でも貴女の報告にはそのような件はなかった」
「判りませんね。紫様、どうかご説明を。でなくばむざむざと、主人を敵陣へと見送ることなど式として出来かねます」
「仕方ないわね。――彼女達は不老不死者(アミターユス=無量光仏)。外界人の目に触れることを拒んで、あの竹林に終の棲家を築いた。幻想郷が崩壊して一番困るのはあの蓬莱人たちよ。私たちは幻想郷がなければ生きてはいけない。でも、彼女達は幻想郷が滅んでも生きていかなければならない」
「宇宙人が心変わりをして、月に帰る算段を企てている可能性は? その手土産として、幻想郷の崩壊に加担したとも」
「蓬莱人が月に戻るとしても、白兎は竹林に残るでしょう。幻想郷が消えれば迷いの竹林も消えるしかない。八意永琳はせめてもの情けとして、自ずから白兎に手をかけようとする。しかしそれを月兎は良しとはしない」

「あの二羽の兎が本気で抵抗しても、八意永琳には敵わない。しかし、決死の抗戦によって竹林も只では済まない」
「合点がゆきました。確かに今の紫様の道理ならば、彼女達は敵ではないのかもしれません。では何を求めに?」
「月の科学力に対するは、月の頭脳」

「私の能力を知り、習性を知る者。私を敵と認識し、私の最愛のものを永劫に奪おうと目論む者――それは月の者しかありえないわ」



■迷いの竹林・永遠亭
 鬱蒼と生い茂る背高の竹の群。其れは上空から竹林にある隠れ住いを隠蔽するのに一役買っているのだが、見上げれば白昼の残月までとどかんとする雲状結界がここからでも見届けることができる。
 雲は霞みを減じ、その向こう側に穢れし罪人たちの築いた欲望の檻籠が乱立しているのが見える。
 そう、観えてしまっている。結界の拡散化は加速度を増している。

「そこで月の賢者。貴女の智慧を拝借したいのだけれど」
 負傷した右手の治療を大人しく受け乍ら紫が八意永琳に訊いた。包帯を巻きつつ女医が答える。
「知ってのとおり、今の私は唯の薬師なのだけれどね。結界のことなら専門外もいいところ。境界を操る貴女以上の知識なんて期待されても困るわ」
「あれが地上の技術、或は能力によって生じたものなら確かに私の管轄でしょう。――アレは明らかに地球外の超文明に因るモノ。適度な暇潰しの為に攻略するほどの猶予はちょっとないのよね。で? アレに触れる為にはどうしたらいいかしら」
「……ないわね。粉粒体構造結界は個としては固体、集合体としては流体の性質を備える。管理者権限の無い者が無下に操作を加えようとすると、大気中で粉塵爆発が巻き起こって幻想郷全土が爆散するわよ」
萃香霊夢は『穴』を抉じ開けたわ」
「その二人は?」
魔理沙も含めて結界の中」
「今回ばかりは軽率ね」永琳は嘆息する。「どうみてもハニーポット・トラップじゃないの」
「まあね。それでも異変が起きたら見過ごすわけにはいかないのが博麗の巫女の役目。敵の術中であろうとも看過しておく訳にはいかない」
「今の話からすると、直接触れさえしなければ権限がなくとも操作が可能ということになる」
萃香を除外して、それを可能とする能力者がいるかしら」
「これは本当に専門外なのだけれど、魔法ではどうなの?」
「言ったように魔理沙は中。紅魔館の大図書館も中。アリスは人形遣い――万能型らしいから念動魔法ぐらい習得しているでしょうけれど、大量規模の無限に均しい流砂物質の誘導操作は無理でしょうね」
「ならプリズムリバー姉妹でも無理ね。騒霊ならポルターガイスト現象を引き起こすのは造作もない。しかし、対象が桁違いすぎる」

 粒自体はミリグラムもないだろう。しかし総質量では計り知れない。

「アレを」と、永琳から眼をそらすことなく紫は指し示す。「全体規模で操作できる能力。技術。現象――はないかしら」
「ないわね。――ということもないわ」

 紫から眼をそらすことなく永琳は諭す。

「結界は唯の結界。誰の手によるものかは知らないけれど、知的生命体によって生成された産物。第三者による直接操作は出来ないといったけれど、あれは絶えず風雨にさらされているわ。そして少なからず影響を受けている」

 紫はほくそ笑んだ。「ありがとう。さすがは月の賢者」
 永琳が微笑する。「どういたしまして。お大事に」

 紫がスキマで退去するのを見計らって、永琳の執務室の扉が開いた。
「今の問答でいったい何を閃いたんだか。スキマ妖怪のことは解らないにしても、永琳はどんな診断を下したの?」
「盗み聞きははしたないですわよ」永琳は微笑する。先ほどとは打って変わって含みを持たない素顔の微笑。「診療秘守の義務がありますから明かせません」
「なによそれ」
「菜の花や 月は東に 日は西に――あの妖怪の考えなんて私にもわかりません。でも名案が浮かんだのでしょうから、あの異常事態も長くは続かないでしょう。早日中(あした)には何事も変わりなく平凡に、穢れし地上を見下ろし乍ら日は昇り沈みを繰り返し、月は満ち欠けを繰り返す――永遠に」
「あれは月を疑っていたようだけど。永琳もそう思う?」
「技術的には可能なのは確かね。でも時候的にはありえない。二大勢力の対立は緊張を保持したままで、何処か他の事――穢れた地上のことなんて瑣末事に手を出す余裕なんてないでしょう。私は違うと思う。スキマ妖怪にしても口ぶりはどうあれ月の侵略だという確証は得ていない筈」
「でもこれで口実が出来た」
「そうね。この騒動が無事に終息してほとぼりが冷めた頃、八雲紫は動き始めるでしょう。再上陸闘争(レコンキスタ)に向けて」

 第二次月面戦争

レイセン達も呼んでお茶にしましょう。とっておきの美味しい芋羊羹を用意するわ」
「永琳。あれの首謀者だけど」蓬莱山輝夜は窓の外の仄めく摩天楼を見上げ、更に見上げる。残月。「あの月に唯一人、勢力争いの蚊帳の外にいて興味も関心も持たず、穢れなき月にあって唯一身、穢れを負って隔離処に幽閉されている……永遠に暇を持て余す人物に心当たりがあるのだけれども」



■守矢神社
「わかりました」早苗は往々と頷いた。「つまり私が主人公だと」

 背後に控えた二柱の神々は自信満々な風祝に一抹の不安を覚える。「なあ諏訪子や。今の話、そういう流れだったか?」「違うと思う」

「あー妖怪の式神八雲藍といったかね。あれだ、そういった依頼は西新宿の煎餅屋にもっていったほうがいい」
「しんじゅく? たしか東京の地名でしたか。あの中は今は無人ですが――なぜ煎餅屋」
「副業なのさ、人捜しが」神奈子は茶を啜った。「伊吹の鬼――萃香を探せといったね。東京がどれだけ広いのかをお前は知らない。仮に東京駅にいるとしよう、公表されている範囲だけでも地上五面地下四面の大迷宮だ。私ら三人が手分けをしても辿りつけない鬼ごっこさ。神に誓ってもいい」
「早苗がまだちっちゃかった頃、あそこで迷子になったことあったよねー」「諏訪子様っ」
「ですが現時点では他に策が、」
「東京全土。地上の建物や地下空間を含めれば広大なんてもんじゃない。すぐ傍にいたって、通り過ぎたビルの中に居たんじゃこっちは気づけもしないんだ。捜しだせっていうのが無理な話しさ」
「神奈子様は、お断りするっていうんですか」批難の眼を向ける早苗に神奈子は茶の御代わりを要求した。「馬鹿を言っちゃいけないよ。相手が信者ではないといえ、神に縋るものを見放すようなら私らは当の昔に消えてしまっているさ。そうじゃないんだよ早苗、私は要件が合わないと言ってるんだ」
「と、申されますと」
「繰り返すけど捜索は無理というものだよ。でもあちらに見つけ出してもらうのは容易い話さ。異変を起こせばいい」
「成る程。確かに博麗霊夢らは異変を解決するために『雲』の中へと入り込んだ。ならばこちらが異変を生じさせれば釣り上げるのは容易であると」
「そういうことさ。さあ諏訪子。お前ならどんな異変を生じさせるかね?」
「んーと。伊吹山縁の四六の大蝦蟇を召喚するとか。ビルの鏡面に映った己の醜い姿にたら〜りたらりと脂汗を……」
「蝦蟇の油、って口上売りかい。すると高田馬場が相場だね。だけど諏訪子、大蝦蟇の召喚なんて出来るのかい?」
横山光輝を読破したからっ。だいじょ〜ぶ!」
「漫画かよ。――早苗は?」
「私ですか。そうですね……皇居を破壊するとか」
『テロ!?』

 真面目な顔しておかしいよこの娘っ、神様もドン引きだよっ。

「早苗っ、それ異変じゃない、犯罪だよっ」
「ええ!? じゃ、じゃあ、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の――」
『三島かよっ』

 さっきから藍しゃまハテナ顔だよ、おいてけぼりだよっ。

「早苗……、そりゃ思想は自由だけどさ、ちょっと偏りすぎてやしないかい? その、具体的には、右に」
「え? 神様の巫女って全身全霊で極系右翼ですよね?」
『いやその発想はおかしい』

「えっえっ? 神奈子様も諏訪子様も神様で日ノ本の守護神で神道は右派で幻想郷に来て唯一の心残りは靖国神社へ参拝にいけなくなったこととか昭和天皇人間宣言をしたことから神格性が否定されて同じ現人神としてこれはちょっと許せないなあと」
『待て待て待てそれ以上の発言は不味いから本当に不味いから』

「どうしよう神奈子、私たちの教育方針まちがってたのかなぁ!?」「いい子なんだよ……根は真面目で素直ないい子なんだよ……」



■守矢神社:仕切りなおし
「結界内部の東京がどのような状況にあるのかを説明します。とはいうものの、あの『雲』は紫様の境界を操る程度の能力ですらも無効化するほどの強力なものですので、私どもも未だ状況が不透明なのですが。博麗霊夢等の開けた『穴』からの出入りは自由であるようなので狐火を即席の式神として先行偵察は済ませております」
「へえ。用意周到だね。で?」
「『穴』を抜けると武蔵野の台地、立川周辺に出ることになります。そこから東を目指せば東京都二十三区へと侵入することとなり、博麗霊夢霧雨魔理沙らは既にそちらに移動している模様です。尚、これはまだ未確認情報で確定を急いでいるところですが、霊夢らの開けた『穴』以外に、反対側から強引に『雲』を強行突破した妖怪も存在するらしい。地図を照らし合わせるとそちら側からは船橋近辺に出ることとなるでしょう」
「強引にって……、あの『雲』には一切の攻撃が遮断されるんですよね? それに紫さんほどの結界の専門家でもお手上げだって」
「ですから、強引に、です」
 早苗の疑問に憮然と藍は答える。「極めて単純な、結界の効力を上回る暴力で『雲』を突破したのです。お陰で『雲』の拡散が増速することになってしまった」
 もっとも、と溜息混じりに藍が付け加える。「侵攻が早まったが為に、早期に異常を感知できたのも確かではあるのですが。博麗霊夢の開けた『穴』から生じた雲塵の流動は細かすぎて眼に捉えにくいが、反対側が穿たれた時に生じた雲塵は空を流れる濁流のようだ。それが不自然に幻想郷の?はずれ?へと溶け込んでいく様が見て取れた」

「内部は鳥獣、虫の類も含めた上で完全に無人。草木は目にすることは出来ますが、生命反応はなく書割程度のものと思ってください。外部から遮断されているため電気、水道、ガスなどの供給は停止。自家発電等の設備は未調査。紫様の考察によりますと、あの東京は外の世界の『それ』そのものではなく人々の幻想が集まって実体化した『東京』ではないかということです」
「要は実寸大の投影装置(じおらま)ってことだね。面白い」
「厄介なのは古来より構築・改良され続けてきた大江戸、帝都、東京魔方陣もそのまま再現されていることです。それに括りつけられている祟り神も幻想として健在であり、結界で切り取られた所為で魔方陣には綻びが生じている」
成田山不動明王の睨みが途切れたのは痛いね。別院の深川不動だけじゃ手厳しい」

 不動明王、即ち大日如来。その意は「揺るぎなき守護者」である。煩悩をかかえ、最も救いがたい衆生をも力ずくで救う為に、忿怒の姿をしている。外道に進もうとする者はしょっ引いてでも正道に戻す等、極めて積極的な介入を行うとものとされており、祟り神の暴走を防ぎ制御する役割を担うには充分な存在だが、魔方陣を組むパーツとしてみた場合、成田山から途絶している所為で影響力は著しく低下している。
 幻想郷の外の世界、日本では長いあいだ神仏習合が続いていたので神奈子や諏訪子は天神地祇のみならず外来系、ここでは仏教系の知識もそれなりに蓄えているようだ。

「神奈子、中央線の霊脈は無事なんじゃない?」
「そっちも立川で途切れているんだろう? あれは富士山の霊気を皇居に流す役割もあるんだが――出雲大社とのラインが分断されてしまっている以上はどうだろうね」
「神奈子様。それはパイプは無事でも中身がないということですか」
「そうだね。早苗の言うとおり、霊脈としては枯渇していると考えたほうがいい」

 限られた断片的な情報を提示しただけで即座に分析を展開して見せた守矢の一同に、藍は感嘆の声を上げた。
「やはり貴女方に頼ったのは正解でした。改めてお願いしたい。どうか伊吹萃香の確保を」
「心得た」
 守矢を代表し、神霊・八坂神奈子は威厳に満ちた声を張った。すがる者を安心させる、凛々しい表情であった。



■厳寒季限定屋台・湖上立喰蕎麦『わかさぎ』
「貴女から呼び出しを受けるなんてね。雪でも降るんじゃないかしら」
「今は冬よ。降ってもおかしくないじゃない。だけどそうね。貴女は冬の妖怪。私は冬篭りする妖怪。知り合ってから長いけれど、こうやって三人で蕎麦を啜るのははじめてね」
 八雲紫レティ・ホワイトロックとチルノを呼び出し、氷の張っている霧の湖の真っ只中に期間限定的に出没するという屋台の蕎麦屋で公魚蕎麦を奢っていた。紫は掛蕎麦であり、レティとチルノはざるである。
「力を貸してほしいの」
「また唐突ね。それだけ切羽詰っているの――嫌だといったら?」
「幻想郷に次の冬は来ない」

 箸の動きを止めるレティ。傍らで蕎麦を手繰る紫に冷えた視線を放つ。割烹着をつけた大妖精が心配そうに見つめ揚げている最中の天麩羅を焦がしてしまい、チルノは無邪気に?だった。

「貴女達の力が得られなければ、春を待たずに幻想郷は消えてなくなる。嘘や冗談では私はこんなことはけっして言わない。あれをなんとかしなければ、結果的にそうなってしまう」
「――何をしろと?」
「寒波を。あの『雲』から散逸した雲塵を再び押し戻し、押し留めるぐらいの大寒波と氷結を」
「人里に数多くの凍死者が出るかもしれない」
「かまわないわ。ワーハクタクには既に警告を発してある。あれの友人に炎を操る不死鳥がいる。彼女等が奔走すれば被害は最小限に抑えられるでしょう」
「人間に恨まれるのは私なんだけどね」
「恨むことが出来るのは生き残ってからこそ。自然を恨む、妖怪を憎むは幻想郷においての人間の真っ当なあり方。人間だけが貧乏籤を引くことに人里で不満が噴出するようなら、私から豊穣の神さまに口添えをして秋の豊作を確約するわ」
「本当に手回しがいいのね。貴女のそういうところ、見習わせてもらうわ」
「それで、返答は」
「チルノはどうする?」

 大ちゃんの南蛮漬けうめーっとはしゃいでいた氷の妖精はレティに話を振られて二人の大妖怪に向き直った。

「なんかわかんないけどやるーっ!だってアタイ最強だもの!」

 とびっきりの笑顔。歯に刻み葱をつけて。

「それなら私はチルノを手伝うわ」
 至極あっさりと肯き、残りの笊蕎麦を思い切りよく音を立てて啜りあげた。「ご馳走様。やっぱり冬蕎麦は大ちゃんの屋台に限るわね」
「人里には公魚蕎麦はないの?」
「わかってないわね紫」
 呆れた口調で冬の大妖怪は境界の大妖怪に云う。「一番は大根を下ろした『からし蕎麦』よ。掛蕎麦の場合は熱で辛味がなくなって『みぞれ蕎麦』に名前が変わるけど、蕎麦はやっぱりざるに限るわ。それを凍りついた湖上で味わう。こんな冬の贅沢を知らないで、よく長いこと過ごしてきたわね」
「いや私、いつもは冬眠中なんだけど」



■円筒状結界前
 守矢の三人が到着するのを藍が出迎える。レティとチルノは既に準備を整えていた。
「いつ始めるの? 私とチルノはいつでもいいわよ」
「もう始まっているわ」虚空を見上げ紫は呟く。「でもまだよ。まだ足りない」

「冬の妖怪と氷の妖精……? いったい何が始まるんです?」
「この結界を中心に寒冷低気圧の陣を敷きます。風速二十五m/s以上の猛吹雪です。お三方も飛ばされないように注意してください」
「私らは大丈夫だけど、あんたの主は何をしているんだい?」
「それが私にも――あ」
 神奈子の問いかけに首をひねる藍だが、ふと何かに気がついて紫と同様に宙を見上げた。「――博麗大結界をなぞるように気団が発生? これは」

「聴こえるわ」目を細め、紫が耳を澄ます。「幽々子が舞っている」

 ほとけには 桜の花をたてまつれ 我が後の世を人とぶらはば

「春告精(リリーホワイト)が踊っている……紫様! 白玉楼にて春の高気圧を確認。桜が、」

 身のうさを 思ひしらでややみなまし そむくならひのなき世なりせば

「これが後の先――ありがとう幽々子。これで形勢が逆転する」
 誰よりも心強い援軍。西行寺幽々子。以心伝心。八雲紫には頼れる友がいる。そのことを実感する。

 深草の 野辺の桜も 心あらば 今年ばかりは 墨染に咲け

「桜が開花。墨染桜が舞っています!」
「今よ、レティ、チルノ」

「やるわよチルノ。私が合図したら遠慮なくぶちかましなさい」「まかせて!」

 大円に高気圧の陣。小円に低気圧の陣。その中を凍てついた大気が吹き荒れる。薄氷に閉じ込められた雲塵がごぉごぉとうめきを轟かせ乍らうねりをあげる。陽の光は厚く遮られ、どす黒い雲泥が幻想郷中から掻き集められる――冬の妖怪、唯一人によって。
「へえ、たいしたもんだね」
 乾を創造する程度の能力を司るもと風の神が感心したように呟いた。神の力と境界操作により、彼女たちの周囲は天候異常の影響を遮断している。「何をする気なのかは了解した。だけど出来るのかい? あの妖精に」
「できるわ」誰ともなく呟いた神奈子に紫が応じる。「直径六十km全体を凍らせるのは流石に無理だけど氷結の連鎖反応で結果的にはそうなる。あの子はいつもどおり何も考えず、一つの標的を凍らせることに集中していればいい」

「今よチルノ!」「パーフェクト・フリーズ!」

 雲泥の巻きついた円筒結界の表面スレスレに、等間隔に氷結スポットが展開する。「境界を弄くって分散させたか。やるね」「まあね」スポットは即座に周囲を氷の皮膜で覆い尽し、あっという間に巨大な氷柱の塔が誕生した。
「――と。ざっとこんなもんね」
 肩で息をし乍らレティが微笑む。呆然と結界を見上げていた早苗だが、ふと我に返る。「こんなことが出来るなら、萃香さんを捜す必要なんてないんじゃないですか?」
「これはあくまでも応急処置、時間稼ぎにしか過ぎないわ。熱で溶けるし被害(デメリット)を考えると何度も使える手段じゃない。切札はあくまでも伊吹萃香。あの鬼が勝負を決する」

「行くよ諏訪子。早苗」
「お待ちください」
 二柱に続いて霊夢の開けた『穴』に突入しかけた早苗を、藍が呼び止めた。「これは云おう、云おうとして今まで先延ばしにしていたのですが――、内部では電気、ガス、水道の供給が遮断されています」
「? それなら聞きましたよ?」
「水道施設が使えないのです」
「はあ」
 藍の云わんとしていることが解らず早苗は首をかしげる。察しろと藍が凄む。秒針がぐるりと回るあいだ困惑したまま互いに顔を見合わせる二人に、含み笑いを浮かべ乍ら紫が助け舟を出した。
「つまりね。急に催したとしても御不浄――水洗トイレは使えないってことよ」
「っ!?」
 ようやく事の重大さを理解した、いやしたくはなかったが、理解せざるを得ず、白くなり蒼褪めた早苗が紅潮して絶叫する。「な、なっ、なぁっ!? なんなんですかそれはっ、他の皆さんはどうしているんですか!」
霊夢魔理沙には主人公補正がある」
 テンぱり喚く早苗に紫が説明する。「吸血鬼にはカリスマ補正。メイド長には瀟洒補正。神様には威光補正。烏天狗は飛びながら」
「飛びながら!?」
「白狼天狗には電信柱が。けれども貴女には」ずばり、と。「何もない」断言した。
「あ、ありますよ! あるに決まってます! 奇跡補正とか現人神補正とか乙女の根性(プライド)補正とかそんなかんじなのが私にもっ」
「何もない」
「繰り返さないでください!」
「だからこれは餞別にあげるわ」どこからともなく取り出した紙袋を早苗に差し出す。「紙おむつ」
「いりませんっ」
 顔を真っ赤にしながら早苗は手渡された紙袋をぶん投げた。
 スキマ妖怪はおおいに困惑する。「もしかして尿瓶のほうが良かったのかしら」「そういう問題ではないかと」



■東京・港区
 目についた『紅白の塔』に降り立ってしばしの休憩をとる魔理沙霊夢。その塔が外の世界で東京タワーと呼ばれていることを二人は知らない。
「ここらが中心部なんじゃないか? それとももう少し先か。霊夢はどう思う?」
「んー? どうかしらね」
「おいおい、なんだか元気がないぜ。いったいどうしちまったんだ?」
「誰にも出会わないなと思っただけよ」
「そうか? レミリアに咲夜、ほかにも結構いたような気がするけどな」
「それは幻想郷の連中でしょ。そうじゃなくって此処の住人――外の世界の人間によ」
「そう云われてみれば、人の気配がまったくしないぜ」
「前に、茶飲み話に早苗に外の世界のことを聞いたことがあったけど。魔理沙、ここにどれぐらいの人たちが住んでいると思う?」
「そうだなあ。……千人とかじゃないことだけは確かだな。一つ0足して一万人か、もう一つくわえて十万……はさすがに多すぎるか」
「千二百万人よ」
「せ――っ!?」
 あまりにも途方もない数値が霊夢の口から飛び出して魔理沙は絶句する。「そりゃさすがに嘘だろ」「本当よ」

「百年ぐらい前の大きな地震でいちど、五十年前の大きな戦争でもういちど、この場所はすべてを失ったらしいわ。最初からたった五十年でこれだけのものをつくりあげたの」
「あたしらにとっちゃ五十年は五十年だが、妖怪にとっちゃつい先日だよな。なんだよそれ。外の世界にはにとりのような奴らが一杯いるのか?」
「神奈子の話だと昔、この国には戦争があった」

「この国は海の向こうの連中と戦っていた。海の向こうの連中は圧倒的な武力と物量を持っていたけど、この国にはほとんど何もなかった。海の向こうの連中も人間だけど、この国とこの周辺――神奈子はあっちは白人でこっちは黄色人種とか言ってたけどよくわかんなかったわ――それでこっちの人間のことを、下等な人間だと決めつけてたんだって」
「? どっちも同じ人間なんだろ?」
「同じ人間よ。同じだけど、対等な人間とは見なされていなかった。圧倒的な武力を背景に不当な要求を突きつけられて、ものすごく悔しい思いをしたんだって」
「神奈子や諏訪子はどうしたんだ。八百万の神々とやらは黙ってみていたのか」
「人間同士の争いには神様は手出しをしてはならないのが古からの不文律。何かしたくとも、できないのよ」

「ある日。絶望的な要求(ハル・ノート)を海の向こうの連中は突きつけてきた。それを呑んだらこの国は滅んでしまう」
「――どうしたんだ」
「戦いを選んだ。幻想郷の人里の人間が山の妖怪たちと戦っても勝負は最初から決まっているように、それ以上に絶望的な戦いだったらしいわ。それでもこの国の人々は戦いを選んで、戦って、戦って、戦って、敗けた」

 霊夢の言葉が重く圧し掛かる。
 二人は戦争を知らない。「弾幕ごっご」はあくまでも「ごっこ」であり、本当の意味での戦闘ではない。多対多の集団戦を二人は知らない。一方的な殺戮を知らない。敗北を認めた者への武力行使を知らない。ありとあらゆる卑劣な手段と、それらを上回る残虐な行為の罷り通る戦場を、千年経っても終わらない戦争を、二人は知らない。

「戦争に敗けて国を占領されて、いっぺんに全部なくして、それでも負けるもんか、負けるもんかって歯を食いしばって、再び立ち上がってここまで来たんだって。反骨精神というか向上心というか、とにかくそれだけのエネルギーを秘めた人たちがここには大勢いた。それなのに今は一人残らずみんな消えてしまっている。いったい何処に?」
 誰ともなく訊く霊夢の問いかけは東京の空に吸い込まれていった。
 東京タワーから地の果てまで広がる無人の街並が見える。立ち並ぶ高層ビルの群れは何故か虚しげで、
「違うぜそれは」
 魔理沙の声が力強く響いた。
「消えたんじゃない。そいつらは初めからいなかったんだ」
 霊夢魔理沙の横顔を見つめる。「そんなすごい奴らは大結界をこじ開けて無理やり入ってきたりはしない。忘れられもしない。否定されもしない。外の世界が今どうなっているかなんて私にはわかりゃしないけど、たとえ絶望的な世界になっていたとしても、何処かで誰かがまだ諦めていない限り、そいつらは何度でも立ち上がるんだろう。霊夢、そいつらは最初から幻想入りなんかしてなかったんだ。外でまだ踏み止まって、未だに何かと懸命に戦っているのさ。負けるもんか、負けるもんかって歯を食いしばりながら」



■谷津・バラ園
 風見幽香は酷く静かに激昂に身を震わせていた。メディスン・メランコリーは黒いマフラーを首に巻いた、片手袋の妖怪を見上げる。二人の目の前に冬のバラが咲き誇っている。筈だった。
 かつてはここに遊園施設があり、バラ園はその施設の一つであった。昭和三二年五月二七日に秩父宮妃殿下をお迎えして開園。当時は東洋一のバラ園として人々に親しまれてきた。七〇〇種六三〇〇株、今は冬薔薇(ふゆそうび)が二人の来訪者を出迎える。筈だった。
 人間と薔薇の歴史は長い。古くは古代バビロニアの時代から、人間は薔薇を愛してきた。香油として、薬草として、或は単に観賞用として、人間は積極的に薔薇と触れ合ってきた。
 幽香もまた、薔薇を愛する妖怪である。彼女を象徴とする花は向日葵だが、薔薇もまた夏の季語ともされる花である。夏の薔薇は二、三日で散ってしまうが、この時期の薔薇は長いあいだ花を咲かせる。春や夏に咲き誇る品種と比べて小ぶりで美しさでは見劣りこそするものの、他の季節の薔薇にはない野性味と力強さがある。そんな冬の薔薇を楽しみにしていたのに、裏切られた。単なるこの身に対する裏切りなら甘受もできよう(報復はするが)。
「これは花に対しての冒涜だわ」

 幽香(フラワーマスター)の眼前には一面の青い薔薇が咲いてみえる。

 青い色素をもつ原種が発見されなかった為、つい最近まで青い薔薇の存在はなかった。青と冠する品種はどれも紫や藍色、藤色に近く、これは赤い薔薇から赤い色素を抜くことで生み出されるからである。昨今では薔薇独自の青い色素(ロザシアニン)が発見された為、遺伝子操作によって幾つかの青い品種が誕生しているが、これらは致命的に殆ど花粉を出さない故に交配親としては不向きとされている。青い薔薇とは、今でも偽りの代名詞なのだ。

 『東京』とともに幻想入りをした生命体は存在しない。二人の眼前には冬の、造花の薔薇が咲き狂っている。
 幽香は激怒した。
「なんなのこれ? 毒にも薬にもなりゃしない。愛おしさが沸かない。これを作った奴には花を愛でる価値はない。外の人間は何時の間に花を愛する心を喪ってしまったというの? それとも『誰か』が私に喧嘩を売ってるのかしら?」
 そもそも、花の中で生きるというのが真っ当な生き方というものだ。息苦しい人工(コンクリートアスファルト)の街並みで花を狭く囲ってしまうという概念は、幽香には理解できない。
「毒もないのか」
「ないわね」
「じゃあ乗っ取ろう! 毒にも花にもならない場所なんか人間にはもったいない。あたしと幽香の庭にしよう」
「いいわねそれ。メディはどんな花が好いと思う?」
「鈴蘭! ……には早すぎるか。冬の花で毒持ちならシクラメンなんかがいいんじゃない?」
「この空間、どうも季節感が希薄過ぎるのよね。私達の屋内庭園を一面の花で満たしましょう」

 おほいなるものの ちからにひかれゆく
 わがあしあとの おぼつかなしや

 九条武子の歌碑を口ずさみなら幽香が指を鳴らす。花符「幻想郷の開花」。着弾した弾幕はそのまま種子球根となって地中に埋まり、青い薔薇を蹂躙し乍ら篝火花(シクラメン)が次々と姿を現す。
 支配領域は瞬く間に拡がり、ゆっくりと。西へ。

「えっと、幽香? これはちょっとやりすぎなんじゃ……」
「そうかしら」
 バラ園乗っ取りを提案したメディだが、S(サディスト)調フラワーマスターはどうも拡大解釈したようだ。意図的に。
 くすり、と微笑む。
「天に向日葵。地に鈴蘭。季節の花々。それと虫。生命四十億年の歴史の渦中で巨大な竜が花に逐われた様に、追込みをかけるのよ。私達に喧嘩を売った奴をね」



 一方その頃。
 大井競馬場では萃香が酔っ払っていた。



■東京・多摩地域上空
「へえー結界の中って意外と明るいんですね。神奈子様どうします? とりあえずはこのまま進みますか?」
「時間の許すだけ、全域から見られるようにできるだけ都心に近づきたいね。杉並、中野、無理をして新宿。最低でも武蔵野、三鷹までは行くとしよう」
 『穴』から立川に抜けた守矢一行はそのまま東、国立方面へと飛行を続ける。
「ところで二人とも。何か違和感を感じないかい?」
「え? 私は何も……諏訪子様はどうです?」
「あのさ。それって神奈子が早苗のブルマを履いているからじゃないかな」
「おや。道理でキツくてムレると思った」
「なっ、なに勝手に履いてやがってますか!」
「いや、丈の長いスカートとはいえ流石に空を飛ぶのに下半身が無防備というわけにもいくまい? それに、こっちに来てから早苗はドロワーズばかり履いているようじゃないか」
「でも似合ってないよねー」
「それは云い過ぎだろう諏訪子。幻想郷での主流はドロワらしいからね。なに、そのうち早苗のドロワ姿も見慣れてくるさ」
「見慣れるってなんですか! 見せませんよっ」
「いや。似合ってないのは神奈子のほう」
ケロちゃん酷いっ」
 二柱の神々と現人神、大いに姦しく残月の真下、一路東を目指す。



 一方その頃。
 国道三五七号(湾岸道路)に寝そべって萃香は酔い潰れていた。



■東京・大手町
 老朽化したこじんまりとした建物と入れ替わるように、新築の高層ビルが乱立する過程の町。これは以前、この地域が皇居周辺ということもあり建物の階数に厳しい建築制限があったが、現在はそれが緩和された為である。
 幽々子の持たせてくれたお弁当を手に、魂魄妖夢は途方にくれていた。
「封印って……、何処にあるんですか? 幽々子様ぁ」
 白玉楼を出立するとき見送ってくれた主人を憶い出す。その笑顔の下に、今回はいったいどのような魂胆を隠しているのか。常日頃から幽々子の思いつきに翻弄されている従者としては、せめて事前に解り易い説明を求めたいところではある。なにしろ自分は「剣術を扱う程度の能力」。斬った張ったには自信はあるが「寝ぼすな紫の代わりに上京して改めて封印をしてきなさい」と云われても――。

(まさか、言葉通りの意味ではないですよね? 幽々子様)
(あら妖夢。封印をしろという言葉に、それ以外にいったいどんな意味を含むの?)

 出るのは溜息ばかりだ。「斬れぬものなど、あまりない!」が信条の妖夢としては、それ以外に得手とすることなどあんまり、ないのだ。

(封印、と云われても……、それって霊夢の分野なのでは? 博麗の巫女ならば今回も異変解決に身を乗り出している筈。あ、霊夢に封印を頼んで来いということですか?)
(いえいえ妖夢
 戸惑う従者を可笑しそうに見つめながら幽々子は断言した。(博麗の巫女は最後まで動かない。だから封印は貴女がするのよ)

 異変が起きているのに、霊夢が動かないということはあるのだろうか。現に東京の空を魔理沙と並走して飛んでいる姿を、妖夢は目撃しているのだ。既に巫女は動いている。ならば自分の役割とは? 頭がこんがるばかりだ。
 巨大な作り物のガマの前でむむむ、と唸っていると、
「お腹がすいたのだー」
 台東区の方角から、宵闇の妖怪がふらふらと流れ着いてきた。
「お弁当もっているのかー。食べてもいい? 食べてもいい?」
「だめーっ! これは幽々子様が私のために用意してくれたお弁当なんだから、食べちゃ駄目!」
「駄目なのかー? だったら、」

「お前は食べてもいい人間?」

 腹の底から吐き出されたルーミアの声にはっとして妖夢は抜刀する。
「そういえばお前は人食いの妖怪……! いいだろう。半人半霊の私を喰らうか、私の剣を貴様が喰らうか、試してみるのも面白いっ」
 悩むより、こちらのほうが性に合う。喉奥で剣士が嗤う。
 だがしかし。剣先を光らせながらじりじりと間合いを詰め寄るシリアス妖夢を置き去りにして、ルーミアはコミカル路線へと前のめりに行倒れる。「お腹が減りすぎて力が出せないのだー。もう駄目」
「え、あ、ちょっとっ。ここから辻斬りと人食いの伝綺的戦闘シーンじゃない! こらー、勝手に倒れるなーっ」



■東京・大手町
「デザートは柘榴なのかー。人間には劣るけど美味しいのだー」
「しくしく。幽々子様のお弁当が」

 幽々子様、三日とろろ美味しゆうございました。干し柿、餅も美味しゆうございました。幽々子様のお弁当は、ルーミアが美味しゆういただきました。ええ、すべて平らげられてしまいました。

「うう〜、ルーミアはなんだってこんなところにいるのよ」
「ふだんは夜道を歩いている人間ぐらいしか襲っちゃいけないから、ここなら霊夢や慧音もいないし人間が食べ放題だと思ったのだ」
 柘榴にかぶりついたまま、夢の踊り食いをしてみたかったなーとのたまう。
「で、誰にも出会わずにこんな奥まで来てしまったと。……はあ。あのなルーミア幽々子様の話だと、この『結界』内には外の人間はいないらしいぞ」
「そーなのかー。妖夢はなんでここにいるんだ?」
「私は幽々子様のお使い。そうだルーミア、おまえ『封印』とやらを見なかったか?」
「ふーいん?」
「そう。幽々子様はこの東京にある封印のことを非常に気にされててな、それが解けてしまうだろうから私に再度『封』をして来なさいと、そうおっしゃったのだ」
「封印かー。それはいったいどんなものなの?」
「わからない。幽々子様は『一目見ればすぐにわかる』としか教えてくださらなかった」
幽々子は意地悪なのかー」
 宵闇の妖怪の無邪気な発言に、妖夢はひどく気分を害した。
「それはちがう。確かに幽々子様は私に対してもなかなか真意を悟らせてはくれないお方だが、それは私が未熟で半人前だからだ。私がもっと優秀な従者であれば、幽々子様の意図も察することが出来る筈なのだ。だから幽々子様のことを悪く言うな。あのお方は半人前の私に『お腹を空かせているだろうから多目にね』と特盛弁当を用意してくださった優しいひとなのだぞ」
「特盛だったのかー」
「そうだよ」
「……わたし、一人で食べちゃった。ごめんね」
「もういいよ。それだけお腹減ってたんでしょ。しばらくして動けるようになったら、ルーミアは帰りなさい」
 立ち上がり、スカートをはたく。「私の半霊(ゴースト)が囁いている。霊的な磁場がひどく不安定になってて危険だって。私も嫌な予感がする」
妖夢はどうするの?」
「封印を探さないと」妖夢は自分に言い聞かせるように言葉を紡いだ。「幽々子様が行末を案ずる程の『封印』。放って置く訳にはいかない。それに、万が一私の手に負えないようであれば斬って捨てろともおっしゃっていた。ああそうだ。そちらのほうが私の領分ではないか」
 口にしたところで、少しだけ気が楽になった。

 妖夢は再び歩き始め――数歩歩いて、おもむろに振り向いた。
「何でついてくるの?」
「私も手伝うのかー」
「は?」



■東京・東池袋
 都内を一望できる場所としてサンシャイン60の屋上を橋頭堡に選んだ射命丸文。背中合わせに犬座りしている犬走椛が『東京』の端々にまで目を光らせている。
 それぞれ赤帯に毛筆で「斥候」と書かれた腕章を巻いている。袖に腕を通してこそいないものの、二人は青・灰・白を基調とした都市迷彩ジャケットを普段着の上から羽織っていた。頭上からの対地攻撃を想定した、大型の偽装傘(カモフラージュ・パラソル)は北アフリカ戦線でエジプトに侵攻したイタリア軍が使用していたビーチパラソル(幻想入り)を彩色改装したものである。

 四方の一角を屋上出入口で、向い側を防弾幕性の組立固定式・半透明射手防護壁盾(スナイパー・シールド:にとり作)でガードし、残った二方の見張りを互いが受け持ち乍ら――二羽の天狗は飯にありついていた。

「信じられますか椛。これだけの広範囲な領土が出現しておきながら、幻想郷の土地は一辺たりとも侵蝕を受けてはいない」

 背中越しに聞き乍ら文の手作り握り飯をぱくつく。海苔ではなく塩漬けにした桜の葉を巻いた球形の炊き出し風、高菜と牛蒡、猪の干肉を詰め込んだいわゆる山賊結びである。これを竹製の水筒で胃袋に流し込む。携行している握り飯はこれ一つ。残りは味噌に米粉胡麻梅肉、数種類の薬草、水飴を合わせて丸め、乾燥させた不味い兵糧しかない。

「空間を歪めた? それだけじゃないな、錯視も併用しているんですかね」
「いい線いっていると思います。で――、やはり椛にも見えませんか? その『千里先まで見通す程度の能力』でも」
「西部方面の侵入経路中心に好奇心旺盛な妖精多数。東の最果てから篝火が扇状に増大」
「篝火? 火災ですか」
「いえ、花です。篝火花(シクラメン)が異常発生。それと巨大な向日葵がビルを次々と押し潰しています。被害は尚も拡大中」
「あの人ですか」
 花を操る危険な妖怪といえば、彼女しかいない。
「南方。東京湾停泊中の不審な屋形船を捕捉。――訂正。閻魔様と死神です」
「遊覧とは暢気なものですね」
 千里眼を持たない烏天狗はそうぼやくが椛の視る限り、並んでカップ麺を啜る緊迫を維持したあの面差しはどうみても最前線配備された、鉄火場慣れした将校と兵士の顔だ。犬(つわもの)の顔だ。今の自分たちも、きっと同じ面構えをしているのに違いなかった。

「我々(ビル)の真下を辻斬りと宵闇が通過中」
「これは珍しい組み合わせですね」
「西端より高速飛行物体三、高度三〇〇、五〇〇……上昇しつつ最大速度で直進。守矢神社の神々です」
「おや、もと外来の神様たちも来ましたか。里帰りですかね」
「そうではないと思いますが。紅白・黒白、東京タワーより離脱、微速にて北上。千代田区霞ヶ関方向に移動。紅魔館の吸血鬼、及びメイド長と合流する模様」
「あの二人も難儀しているようですね。今回ばかりは勝手が違う」
秋葉原に河童。喜色満面と電化製品を漁っているようですね」
「いいなあ。特務がなければ私も外のカメラを物色したかったんですけどね。――で、無人と」
「ええ。文さん、確認の出来る現地住民は皆無です」

「おかしいと思いませんか椛。これだけの土地の所有者、支配人、この異変を引き起こした黒幕――がこの期に及んでも姿を現さないなんて」
「そのような人物など、初めから存なかったのでは?」
「その場合、所有権を巡っての妖怪たちによる争奪戦が危ぶまれますが。――前例がある以上、楽観視は危険です」
「前例、ですか?」
「迷いの竹林のことですよ。あれは元々幻想郷の外にあった、因幡国の高草郡と呼ばれていた場所。土地の幻想入りは稀少ではあるものの、皆無ではない。あの竹林を例にすると、その所有者を自称しているのは嘘つき兎です。最近の例では早苗さんたちも守矢神社と湖(エレキング棲息)ごと幻想入りしてきましたし。だからこの『東京』にも統治者がいるのではないか――というのが大天狗様、ひいては天魔様のお考えです」
「はあ」
「その様子だと解っていませんね。我々以上の高度な技術を有した文明圏が突如として妖怪の山の鼻先に現れた。天魔様は危惧されているのですよ。相手の明確な意思を確認しない限り、最悪の場合も想定し、準備しなければならないと」
「戦争(いくさ)になりますかね」
「嫌ですよね、あれは。妖怪の山では既に臨戦態勢が整えられつつあります。とは云うものの表面上は哨戒天狗(E−2C:ホークアイ。丸盾型レーダードーム装備)を増員した程度にすぎませんけどね。現時点に於いては山に直接の被害がもたらされたわけでもなく、ならば麓の怪異は麓の者たちに任せるのが筋ですから。しかし有事を踏まえて情報収集を怠るわけには行かない。だからこそ、私達を潜入させて未知なる来訪者の真意を探るお心算りなのでしょう。私は従軍記者として。貴女は軍用犬として」
「犬じゃないです。狼です」もはや常套句となってしまっている台詞を返す。「それに文さんの話だと肝心の軍隊が抜けているじゃないですか。軍人は誰なんです?」
「何を云ってるんですか。椛、軍人なんていないほうがいいに決まっているじゃないですか」



■東京上空・高度千五百メートル
 雲で、文字(メッセージ)を書く。
 それが神奈子の発案だった。

「航空ショーで飛行機雲を使ってハートマークとかを空中に描いたりするアクロバットがあるだろ。私と諏訪子が雲底から雲を掻き集めて配置するから、早苗は指示を出しとくれ」
「文章はどうしますか?」
「手短なのがいいね。戦争だー、萃香を捜せー、という奴を英文で」
「英文!? いま鬼畜米語と申されましたかっ?」
「お前は何時の時代の生まれなんだい」
「突っ込んだら負けだよー神奈子。早苗、英語は苦手だったっけ?」

「というかですねっ、勉強が好きで得意だったら学校のない幻想郷には来てませんでしたよっ」

「云っちゃったよこの子」
 けーねには聴かせられない早苗さんの青春の主張でしたとさ。

「だいたい幻想郷の皆さんにアピールするなら日本語でいいじゃないですかっ」
「あのね早苗。無風状態にして雲を空中に固定するといっても、自然と流れてしまうもんだ。こればかりはしようがない。寄席文字や相撲文字みたいに潰れてしまったら判読できなくなるよ」
「アルファベットなら字画が少ないからねー。意味が通じればなにも正確な文法じゃなくたっていいんだからさ、WARとかSuicaとか単語を並べてそれっぽく、いかにも勉強の苦手な子が頑張ってみました! みたいなの」

 頑張れ早苗さん。頑張れ俺の嫁

「天地あり。然る後、万物生ず――さあ、はじめようじゃないか。この雲が『雲』ではなく、幻想郷を流れる恵と禍の雲であるならば、私(天神)に従え」
「私(地祇)に従え。我等(神祇)に従え。我等(守矢)は八百万の神々の末席にして幻想郷の新参。主等からすれば外来忘却の小物なれど、鉢の木の心得は古参にも負けじ。雲よ。雲の精霊よ、妖精よ、御霊よ、雲神よ。今は幻想郷の一大事。漠然と漂っておる場合か否か、漫然と惰眠を貪っておる場合か、否かっ!」

『従え!!』

 従った。



 一方その頃。
 浅草雷門では風神雷神大提灯にすげー、でけーっと感嘆の声を漏らし乍ら、萃香が酒を浴びていた。



■東京・サンシャイン60屋上
 束の間の食後の一服を満喫する文と椛。パッケージには弓の先に止まった金鵄がデザインされている。フィルターのない、現在日本で流通されている銘柄の中で最古の紙巻『ゴールデンバット』の大戦期版である。文はこの空箱をフィルムケースとしても流用するほど愛煙していた。製造時期や湿度によって相当に味の変わるのが他の銘柄にはない大きな特徴であり、烏天狗達に広く愛好されている。
 と。柵を飛び越えてすたりと着地する人影に一瞬、虚をつかれ――壁盾に備え付けられているピストルポートで狙いを定める烏天狗と丸盾をかまえナマクラ刀(非殺傷打撃刀剣)を抜いて飛び掛る姿勢を取る白狼天狗に対し、妖夢は両手を左右に振り乱し攻撃の意思がないことを示した。
「待って、撃たないで! 私です、妖夢です」「私なのだー。歓迎されていないのかー」
「なんだ、妖夢さんたちですか。どうしてこちらに? というか、ここに私たちがいることを知ってたんですか?」
 あっさりと警戒を解き盾を飛び越えて文が二人の前に着地する。
「いや知らない。私たちは見晴らしの良さそうな場所ということで此処に来たんですけど――やけに厳戒ですけど、何かあったんですか?」
「何もありませんよ。でも一応は敵がいるかも知れない陣地ですからね。念には念を入れてという奴です」
「はあ。そうですか」
 弾幕戦、じゃれあい程度の実戦しか知らない妖夢は天狗達をやりすぎなんじゃないかと思ったものの、自分には関係ないかと気にしないことにした。
「それよりも妖夢さんとルーミアさんて珍しい組み合わせですよね。いつからそんなに仲良く?」
 文花帖を広げ『清く正しい射命丸』モードで尋ねる文にげんなりと答えた。
「こいつがお腹をすかせて出会いがしらに倒れたので、お弁当をあげたら懐かれた。丁度いい、こちらからも訊きたいことがある。封印を知らないか? 私は幽々子様のお使いで、この街にあるという封印を探しているんだ」
「封印? 将門様のことですかね」
「それなら私も知っている。私も確認したが、幽々子様は違うと云っていた。祟り神とは別の封印だ」
「別の?」即座にきっぱりと否定されて文は眉をひそめる。「他に封印的なものってありましたっけ? 椛はわかりますか?」
「文さんが知らないなら私だって知りませんよ。それよりも宵闇妖怪をどうにかしてくださいよっ。じりじり迫ってきて怖いんですけどっ」「犬の肉は美味しいのかー?」「犬じゃないっ」

 きゃんきゃうんわんわんわん。

「うるさい外野はほっといて。すみません妖夢さん。お役に立てそうになくて」
「いえ。それよりも、こんなところで野営? をしないほうがいいですよ。早々にここは吹き飛ぶ」
「――どういうことです」
 目の前の烏天狗が風神(記者)モードから山妖(戦士)モードに切り替わったことに妖夢は気がつかない。
「どうもこうも。幽々子様の話では、魔理沙らが東京を破壊する所為で魔方陣が消滅する。それで祟り神が復活するということらしいです。此処は間違いなく、消し飛びますよ。そういうわけで私も巻き込まれないうちに務めを終えて退散したいのですが」
 とんでもないことを告げられ、文は叫んだ。「椛! 撤収準備! 現地を放棄、区外、いえ東京湾へと転進します!」
 何故、魔理沙が東京を壊滅させる行為に出るのか。疑問はあるが幻想郷において八雲紫八意永琳と並んで最上位の策士とされるあの西行寺幽々子が断言したのであれば、その「読み」は間違いなく現実のものとなるだろう。

 アレが本領発揮したなら区外といえども安全地帯ではない。なぜ閻魔が遠巻きに待機していたのかに今更気がついて文は舌打ちした。敵情視察を帯びた文と、あくまでも祟り神の監視に重点を置いた閻魔の任務の性質の違いこそあれ、前進しすぎたことを悔いる。「私もまだまだですね」
 両手を広げて圧し掛かるルーミアを蹴り飛ばし「は、はいっ」、椛が壁盾を四枚に分割、更に三つ折に重ねてケースに仕舞い込む。続いてパラソルを折り畳む椛の下っ端姿を尻目に、文は妖夢に尋ねる。
「随分と落ち着いてますね。祟り神の復活がどれだけの禍を招くのか、それを想像できないわけではないでしょうに」
「ええ、我々には為す術もないでしょう。せめて村正でもあれば辛勝して見せますが。しかし守矢の神々に掛かれば将門も雑魚同然と幽々子様が仰っていましたから」
「? それはどういう」
 訝しみ、文が追求しようとしたとき。

 ――頭上で異変が起きた。



■東京・立川

 妙に硬くて寝心地の悪いベッドでパチュリー・ノーレッジが目を覚ます。「ソファー? ここは」「あ。お目覚めになられました? でも、無理をしないでまだ横になってた方がいいですよー」使い魔の小悪魔が、シーツの代わりにパチュリーにかけていたカーテンのずれを直す。
「小悪魔。ここは何処なの」
「入り口には『都立多摩図書館』てありましたけど……どうしたんですかパチュリー様、突っ伏したりして」
多摩図書館って……、立川よね?」
「はい。立川です」
 主人の心を知らず。にっこり微笑んだりなんかして、小悪魔が答える。
「それよりもパチュリー様。お体の具合はどうでしょ」
「そうね。双六でいきなり一の目が出て、いきなり一回休みの升目に止まった気分、と云えば解るかしら」
「はあ。それはまた随分とどん底な気分ですね」
「最悪な気分よ。本当に最悪。国会図書館までの道程は私には遠すぎる」
「私にとっても永田町は遠すぎますね」
「嘘。あんたならひとっ飛びじゃない」
「ええ。私だけなら。パチュリー様は倒れるまでのことを覚えてます?」
「――確か、ふらふらと飛行していたら残月が眩しくて立眩みを起こしたのよね」
甲州街道という道路で倒れたんですよ。動かない日陰少女がいきなりアクティブになって日向に出たものだから、貧血にでもなったんですかねー。そのままにはしておけないし、近くの建物にでも運ぶつもりだったんですが、パチュリー様思いの私としましては、やはり小さくとも図書館の方が喜ぶんじゃないかと思ったわけですよ」
「小悪魔……。怒ってる?」
「別に怒ってませんよー」笑顔で。

 むしろその笑顔が怖くてパチュリーはむきゅーとなった。

「こ、小悪魔にも迷惑をかけたわね。ありがとう。それとごめんなさい」
「いいんですよー。でも迷惑したんじゃなくて心配をしたんですからね。そこのところを間違えないでください」
「う、うん」
「今日のところはこれでも読んで大人しくしててくださいね」

 テーブルの上にどん、と置かれる中里介山大菩薩峠』全四十一巻。破天荒な辻斬りといつまでも続く慶応三年の秋の物語。最後まで読破しても、未完なのである。なにこのチョイス。

「わからない。小悪魔。あなたの心がわからないわ」
パチュリー様、寝起きで喉が渇いてません? いまココアでもお持ちしますから」

 よいしょ、と、小悪魔がやたらと重そうなハンマー(十六t)を振り上げた。

「ちょっと待てーーーい! なによそのハンマーはっ」
「え? パチュリー様ココアはお嫌いでした? でも紅茶はあまりお勧めじゃないんですよ」
「だ、か、ら”っ(喘息)。――私、からかわれているのかしら」
「いえいえ。パチュリー様が寝ているあいだに給湯室にいってみたんですよ。でも、ガスも水道も使えなかったんです」
「それで?」
「それでハンマーでココアを」
「待ちなさい。どうやればハンマーでココアが作れるのよ。それともなに、悪魔の世界じゃそういう使い方があるの?」
「悪魔の世界にはあるかもしれませんねー、知りませんけど。でも小悪魔の世界にはありませんよ?」
「それじゃなによ、そのハンマーは」
素手じゃ自動販売機とかいう機械を壊せませんから」

 なるほど。

「前に魔理沙香霖堂という古道具屋から持ってきたものを見たことがあるわ。確かテトラパック(三角紙パック)ジュースという奴ね」
「ええ。先ずはハンマーで自動販売機を壊して、コインを取り出してですね。それを隣の自動販売機に投入するわけです」
「……電気、使えないんじゃない? ここ(広間)の照明もついてないみたいだし」
「ががーん」
「いいから。販売機壊してジュースでもなんでも取ってきなさい」
「嫌ですよーパチュリー様。それじゃ魔理沙(泥棒)さんじゃないですか」
「お金を取るのはいいのか」

 その前に器物損壊だ。

「? お金って金貨や銀貨のことですよね。それ以外の金属硬貨は石ころと同んなじです小悪魔的に」
「金貨銀貨なんて一体何時の時代の話よ。それに金銀以外の硬貨も馬鹿に出来ないのよ。例えば純ニッケルは特殊鋼や薬莢等の軍事物資の素材になるから、戦時に備えて平時に硬貨として国内に流通させておいて、いざ必要なときに回収することも――」
パチュリー様?」

 不自然に途中で唇を止めた魔法使いに、小悪魔が首をかしげる

「――いま、何か天上を伝播しなかった? 『従え(アデアット:来れ)!』と」
パチュリー様。とうとう毒電波まで受信されるように……よよよ」
「馬鹿なこと言ってないで確かめて頂戴。私の位置からじゃ窓の外は見えないのよ」
「はーい」

 窓辺に移動する小悪魔。溜息を一つつくと、パチュリーは深く俯き思考を開始する。

「今のは属性魔法? 召喚? でも私の知るどの魔法とも違う。だとすれば陰陽、密教神道系? よくわからないわね」
「わあ!」
 と。小悪魔が子供のような歓声を上げたので思索を打ち切る。「パチュリー様! 凄いですよ、雲が文字のような形で並んでますっ。不思議ですねー、異変ですかねー。あ、ちゃんと読める、のかな?」

「ちょっと読み上げてもらえるかしら」
「はーい。『Sanae ha ore no yo』」

「それは唯のノイズ。他には?」
「えっと……『ultima ratio』?」

「『最終手段』。中世の君主、即ち『統治者』にとって暴力とは『最初の手段=プリマ・ラティオ』である。それに対して民主主義社会の『政治家』は暴力を『最後の手段=ウルティマラティオ』とする。究極の理論としての武力行使。『ultima ratio regum』はローマの格言ね。『戦争とは、王達の最後の議論』……戦争?」

「絵文字ですね。私みたいに頭の横からこんな具合に二本の角が……これは鬼ですかねー」
伊吹萃香。密と疎を操る程度の能力者で、鬼。萃まる夢、幻、そして百鬼夜行

「絵文字の横にまた文字が描かれてます。『Shi is war lock』……『彼女は悪魔(ワーロック)です』?」
「女性の鬼を示すなら『ogres』、もしくは単に『ogre』を使うでしょう。『彼女は戦争に鍵をかける者である』――やっぱり戦争」
パチュリー様?」

「――何者かが戦争を仕掛けてきていて、幻想郷は危機に晒されている。戦争終結の鍵を握るのが伊吹萃香――そういっているみたいね、あの空中に描かれたメッセージからすると。Sanae、サナエ、早苗――、守矢の神々が?」



 ――【#1 『TOHO WAR』 02に続く】



■中書き
 本日公開はここまで。続きのうpは未定。ちなみに今回は自分環境で1000行程度の章まで上げましたが、実際には2000行程度まで打ち込み済みであったりします。とは云うものの、エピローグまで書いて現在は中盤ぐらいを書き込んでいるトコロなので、すぐに公開できるのは700行ぐらいですか。
 この日記だと空白の行が詰められてしまうってこと、すっかり忘れてました。ちと印象が違うのね。完全版は別形式での公開がいいのかしら。