#1 『TOHO WAR』 02

■円筒状結界前
「こんなのが目の前に立っていると流石に冷えて辛いわね。ちょっと、甘酒をつくってくれないかしら?」
「何をのんきなことを。紫様。状況は依然、こちらに不利なのですよ。我々もこのまま座している場合では、」
「あら。既に天王山は超えた。勝敗は決した。私達の勝利に揺るぎはないのだけれども」
「そんなことはないでしょう。守矢の一行はまだ伊吹萃香の確保に動き始めたばかり」
萃香? ああ、もう必要ないわ」

「――は?」

「切札を投じた以上、私はもう必要ないと云ったのよ」
 紫の言葉を、その意を理解するのに藍は数瞬を要した。「紫様の仰る切札とはつまり、守矢の面々ですか?」
「そう。確かに萃香を確保できればそれで事足りるのだけれど、捜索に割く手間を考慮するとどうしても数手出遅れてしまう。だから守矢神社に行って貰ったのよ」背後にスキマを開き、玉座さながらに紫が腰をかける。幻想郷とともに生き育んできた大妖怪が式神を見据える。「貴女に、ね」

「宣戦布告とは当事国に対し戦意があることを宣言すること。私に対して『戦争』を告げたのは貴女だった。本来、宣戦布告同時攻撃は宣戦布告の意味を成さないのだけれど、博麗の巫女の出動と難攻不落が装われた結界に対する攻略の機転が貴女の予想を上回った誤算といったところかしら」

「紫様。貴女は、何を」

「――ところで目覚めてから橙の姿を見かけないのだけれど、やっぱりあの中かしら?」
「橙なら炬燵の中で転寝しておりますが?」
「……私みたいに起こさないの?」
「!? 冬の寒さに身を縮めている猫を引きずり出せとっ!? 鬼! 悪魔! スキマ!」
「……納得いかないわね」

 尚も年増、少女臭とさんざん喚き散らす式神を無視して、紫はスキマに手を入れた。「あら。ほんとに炬燵の中で丸くなってるわね」八雲邸の電気炬燵(コードの先端はスキマで外世界のコンセントに接続)から式の式を胸の中におさめた。「うふふ。ああ温かい」
「ゆかり、さま……? あれ、どうして?」
 常春の楽園、真冬の猫の桃源郷からいきなり厳寒の屋外へと連れてこられ、更には冬篭りの最中である筈の紫に抱きしめられて寝ぼけ眼の橙は混乱する。

「あぁっ!? 紫様なんという酷い事を! えぇい、橙を抱きしめるなら私に代わりなさいっ」

 我を取り乱した藍の叫びに、「らんさま?」橙は顔を向け――瞬間、紫の腕の中で威嚇体勢に構えた。「貴様、何者だっ」尻尾を逆立たせ咆哮(さけ)ぶ。
「橙? お前まで、いったい」
 完全に敵を睨み据える眼光を橙から放たれ、藍が困惑する。

 紫は云う。

「貴女は体格、人格、記憶、状態、そのどれもが八雲藍と同一だった。それは認めましょう。本人から直接それらを読み取って『複写』したのでしょうから。だけどその一方では決定的に藍とは違う箇所があった。『心理』。あの子はね、冬眠中の私をあんな優しい声色で起こしたりはしない。叩いて、殴りつけて、蹴り飛ばしてでも私を目覚めさせようとするだろうし、『殴れ』と命じられたなら私が云い終えるのも待たずボディに悶絶するような一撃をお見舞いしてくれるでしょう。――なんだか云ってて腹が立ってきたわね」

「貴様、藍様をどうした!」

 藍は大いに動揺する。

「貴女の正体は『雲』。藍に成りすましたその技術は確かに素晴らしいものだわ。私か橙でなければ違和感に気がつかないぐらいに擬態の完成度が高い。でも、それが欠点でもあったのね。オリジナルと同一の行動パターンしか刻めず、ユーザーが自在に制御することが出来ない。せいぜい対象物の身近の人物と摩り替えての監視役ぐらいにしか役に立たない」

「藍様を返せ!」

 八雲紫は、八雲藍の目を見据える。式神を通じ、式神と通じている者を見据える。「嫦娥。貴女の敗因はね、幻想郷全土を敵に廻して居乍ら、私しか見ていないこと」



 「三人いれば派閥がうまれる」

  「二人いれば闘争がはじまる」

   「ずっと一人だった貴女には、人妖(ヒト)の心が解らない」



「藍様!」

「紫様、橙、私は、」

「ほら」紫は藍を見据えたまま、彼女の背後を指さした。「そうやって今も私しか見ていないから、容易に背後を取られる。私達の藍に」

「藍様!」

 橙が歓喜と安堵の声を上げた。藍が背後に顔を向けるのと、背後にいた本物(手負い)の藍が贋物の首を手刀で跳ね飛ばしたのはほぼ同時であった。「私の姿で、私の主と私の式の前に立つな。名を呼ぶな。不愉快だ」頭部を喪った身体が、膝から落ちる。次には流砂の如く崩れ、散らばり、明滅する火花が――藍を巻き添えに爆散(粉塵爆発)する。これを浴びるのは本日二度目だ。

「藍様!」

 土煙が嘶く。爆風が凪ぐのを待たず「フン」、泥と汗と、ぼろ雑巾のようになった服と、血の滲んだ身体で、それでも確りとした足取りで、堂々と、主人と式の待つ場所へと歩み寄る。幻想郷きっての大妖怪の式神。ならば例え肋骨(あばら)が折れていようと、例え膝が砕けていようとも、無様な姿など晒せるわけがない。「遅れて申し訳ございません紫様。ご無事でしたか」主人の前で九尾の妖狐が跪く。

「藍様!」

 紫の手から跳び出し、橙が首に抱きついた。う、やべ。はなぢ出そう。愛猫を抱き寄せつつさり気に木綿の下着に包まれた尻とか撫でくりまわしてひゃっほぅ!

「お立ちなさい藍。このままでは寒くて凍えてしまうわ。甘酒を用意してもらえないかしら」

 す、と包帯を巻いた紫の右手がさしのべられる。それはあの時、円筒状結界の強行偵察に緊急出動して不用意に接近しすぎた為に『雲』の鎖に捕縛され、抵抗するも身動きの取れずにいた藍にさしのべられ、痛手を負った右手だ。『雲』からの拒絶を受けても尚、鎖を掴んでしつこく放そうとしなかった右手だ。閉じ行くスキマに吸い込まれていくその最後まで、血の糸を幾重にも絡ませたまま伸ばされていた手だ。
 その手が、今ここに。

「はい。只今――と云うとでも思いましたかっ!?」

 さしだされた愛おしい右手から視線を外すのを惜しみつつも顔を上げ、立ち上がるや藍はキッと険しい表情で紫の胸倉に掴みかかった。

「私が結界に捕まっていることを承知で寒冷低気圧の陣を敷くとはどういう了見ですかごるぁっ。私を殺す気ですかっ」
「だって仕方がないじゃないっ、他に方法が無かったんだからっ。それに貴女キツネでしょっ、日本最強の妖獣、妖狐なんでしょっ。寒くても平気なんでしょっ」
「耐寒耐性にも限度ってモノがあるわっ。おまけに冬の寒さに身を縮めている橙を炬燵から引きずり出すとはっ! 鬼! 悪魔! スキマ!」
「やめて! 顔はぶたないで! 私、少女なのよっ」
「齢千を越えた少女がいるかぁっ」
「藍様藍様っ。陣中でござる陣中でござるぅっ」

 「八雲」の日常が戻った。



■東京・内海(東京湾
 二十m規模の屋形船『天和(テンホー)弐式(英名:Heavenly Hand)』。これはその名の示す通り、天和二年(一六八二年)の大船禁止令により衰退した隅田川の屋形船が幻想入りしたものである。外観は修繕こそされているもののほぼ江戸時代に使われていた「なり」を維持しているが、内部は河城にとりによって尽く弄くられ、外来のものと同様に操舵・調理空間に最新の技術が導入されている。今回の任務遂行に必要とされ、四季映姫の権限で投入された装備品の一つである。畳敷の客用空間には同様に弦を張られた竹製の大弓と矢、そして大量のカップ麺がダンボール製の輸送ケース単位で積み上げられている。これは外部の閻魔達が差し入れとして、これまた大量のペットボトルの飲料水とともに提供してきたものである。
「映姫様。なんであたいら海の上で東京(おか)を眺め乍らカップ麺を啜っているんですかね」
「昔の人は云いました。腹が減っては戦は出来ぬと。いいですか小町。冬の海ではお弁当など凍りついてしまって到底食べられるものではありません。愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ。覚えておきなさい」
「あー……その、ですね。厨房にはちゃんとレンジも積まれているんですけど。ほら、チンして温める機械が」
「――――。」
「もしかして食べたかったんですか? えーき様。カップ麺」


 ずるずるもそもそと咀嚼する音が響くだけの気まずい沈黙が続いていると思いねえ。


「このカップ麺はですねっ、首都機能を失って混乱状態にある日本各地の閻魔達が、自分達も激務続きで大変だというのにわざわざ我々のために自腹を切って提供してくれたものなのですよっ」
「はあ。それは有難いとは、あたいも思いますけどね。なんだってこんなに、大量に」
「それだけ我々の双肩に期待がかかっているということです。何せ平将門の怨霊へと正面から挑む閻魔など前代未聞ですから」
「――あの噂話、まるきりの出鱈目じゃなかったんですかね」
「将門を裁こうとした当時の閻魔を開きにして三途の川を逆流し、再び此岸(顕界)に舞い戻って地上に呪詛を降り注いだという――いくらか誇張はあるでしょうが、概ねその通りです」

 縮れ麺(醤油味)を兎(ウサちゃん)のフォークに絡ませ、勢い良く頬張る。

「だからなんだと云うのですか。怨霊だ、祟りだと恐れていてはこの役目(閻魔)は務まりません。白は『白』。黒は『黒』。白黒ははっきりとつけるべきです。私の見立てでは平将門は『黒』。真っ黒もいいところです。――! いよいよ動き出しましたね」

 東京の空を自由気侭に緩慢と漂っていた雲が何者かの指揮に入ったが如く、突然きびきびと活発化を見せ始める。

「狼煙雲。――『ultima ratio(いくさ)』と書いてありますね」
「怨霊を祟り神として支配地の霊的基盤としたのが『黒』ならば、此度戦争の道具として扱うのも『黒』。腹立たしいですね。私の裁きも月となると管轄外です」
「敵は月だと?」
真昼の月が出ているでしょう。ならば攻め入ってきたのは月。自明の理です」
「はあ」
 スープを飲み干し、幻想郷の閻魔(ヤマザナドゥ)は湯気混じりの白い息を吐いた。「あの白い月は疑うべくもなく『黒』。わかりませんか?」
「すみません。わかりません。というかですね、あたいにも解るよう、説明をしていただけると、」
 頭を掻き乍ら『あたい落第生』といった表情で小町は首から上をへこへこと上下させる。
 映姫は溜息をついた。

 説明も何も、見たままだ。

 盲人に空の青さを説明するのは難しい。ひどく難しい。しかし目明きに空を指さし、あれが空の青さだよと云えば、普通はそれで通じるだろう。普通はそれですんなりと理解するものだろう。
 百聞は一見にしかず。一見は百聞にしかず。一目見て理解できないようであれば、これはもう、百の言葉を以て叩き込むしかない。
「わかりました。私の識り得る限りの言葉を駆使して説明しましょう。小町。正座を。特別に講義の時間です」

 千の言葉がいいか、万の言葉がいいか。よし、ならば那由他を越えて、不可思議の果てまで語り尽すまでだ。

「月が敵ですね! あたいにもわかりました! 解りましたから講義(お説教)は結構です」
「――その言葉。本心から云っていますか?」

「ご覧ください四季様。此岸(現世)の奴らが攻撃を開始しました。目標は『東京全域』。あいつら加減てものをしらない。とことん遣り尽くす気のようだ」

「誤魔化しましたね。――まあいいでしょう。小町。用意を」
「あたいはいつでも。四季様は?」
 熊さんフォークを置いて愛用の鎌に手を伸ばす小町の鼻先に、す、と封を切られたばかりのカップ麺(カレー味)がさしだされた。
「荒ぶる御霊がまだ出廷していません。開廷はまだ。裁くのは我々ですが、出番はまだです。小町。お湯の用意をお願いします」



■東京・霞ヶ関
「よく見つけたわね咲夜。外の世界の紅魔館」
「まあ赤いですから」

 官公庁の集積地。霞ヶ関一丁目にある中央合同庁舎第六号館・通称“赤煉瓦棟”――法務省旧本館の前に、レミリア・スカーレット十六夜咲夜が佇んでいる。メイド長の見つけた建築物を、お嬢様は大層お気に召されたようである。

魔理沙にはああ云ったけれど、こんな建物が用意されているのならここ(東京)を避陽地にするのも悪くないかも」
「ですがお嬢様。景観はあまり……」
「そうなのよね。背の高い建物がこの館をぐるりと囲んでるから、まるで見下ろされているようなのが気に食わないわね。だけど咲夜、ものは考えようよ。フランが遊んでもいいオブジェだと思えばいいの」
「まあ妹様なら喜んで崩してくださるでしょう。それとお嬢様。もう一つ問題があります」
「なによ。まだあるわけ?」
 日傘の下でプーっと膨れるレミリアに対し咲夜は北西――永田町方面を指で示した。「パチュリー様が深い関心を寄せられていた国立国会図書館とは、距離が少し離れておりますね」
「う。それはなんか嫌(や)だ」

 一喜一憂。喜怒哀楽を隠そうともせずころころと表情を変えるレミリアに、メイド長は後ろ手で小さくガッツポーズをしーの、時間を停めて鑑賞しーの、にまにましーの、鼻血だしーの拭きーのとちょっとは自重してください。

「私が此処を気に入った以上はきっとパチェも図書館を気に入ると思うのよね。この『東京紅魔館』内に蔵書を搬入するのは違うだろうし、『東京大図書館』を紅く塗ればいいという問題でもない。問題は距離、距離、距離――ねぇ咲夜。『距離を操る程度の能力』の持ち主とかに心当たりはない?」
「はあ。確か三途の川の渡し守がそうだったかと」
「それよ! そいつを此処の門番に雇い入れるっていうのはどう、咲夜? うん、我ながらナイスアイデア
「でもお嬢様。あの者は仕事をしないことでも有名な死神ですよ?」
「仕事をしない? それはますます門番向きの人材ってことじゃないの。気に入ったわ。咲夜。明日にでも早速スカウトするわよ」
「私は気に入りません(主に胸)。仕事をしない門番は、うち(私)の門番だけで結構です」

 つん、とそっぽを向く。たとえお嬢様の命令といえども、こればかりは従えない胸。

「なによ。咲夜は私の云うことがきけないっていうわけ?」
「凄んでも駄目です。あの死神の上司はあの閻魔ですよ。お嬢様、あれと交渉するということは即ち、無限の説教地獄の幕開けでもあるわけです」
「う”」
 咲夜の迫力にレミリアが怯んだ。「それは嫌。もっと嫌。正座もお説教も罰策もイヤ!」
「そういうわけですので諦めてくださいませ」
「――咲夜。世の中ままならないわね」
「ままなりませんね(胸)」

「よお。コントはもうおしまいか?」
 頃合いとばかりに、箒に跨った魔法使いが博麗の巫女と共に舞い降りてきた。
「また会ったわね。コントじゃないわよ。こっちは真剣なんだから」
「真剣にコントをやってたんだろう? ここら辺りが中央か、ん?」
「それより見なさい二人とも! どう? 東京の紅魔館! 咲夜が見つけたの」
 さっそく自慢するレミリアに、ぽつりと霊夢が呟いた。「気に食わないわね」咲夜が気分を害する。
「あら。煉瓦色の褪せた赤が気に食わないなら、巫女の血で鮮やかな赤に染め直しても宜しいのだけれど?」
「べつにこの屋敷のことを云ってるんじゃないわよ。異変だと出張ってきたのに敵対者と遭遇しない。なのに、此処に来てからずっと違和感が続いている」
「違和感?」
 今にも、というかいつの間にかナイフを構えていた咲夜の剣呑さを気にも留めずに霊夢が云う。

「今頃になってその正体にようやく思い当たったわ。誰かに見られている。ずっと監視されているって。気配は微塵もないのに視線だけは感じ続けている。それが違和感の正体よ」

「なあお前らもなんか云ってくれよ。霊夢の奴、さっきからずっとこんな調子なんだぜ」
 肩をすくめ乍ら魔理沙がぼやく。
「視線、ねえ? 自意識過剰?」と咲夜は返し、
「天狗に千里眼の犬コロがいたじゃない。それじゃないの?」とレミリアが首をかしげる
「哨戒天狗に睨まれる憶えも恨まれる憶えもないわよ(たぶん)。この視線の主は微塵も敵意を隠そうともしていない。それで、私達がどう反応するのかを視て愉しんでいる素振りすらある。……気に喰わないわね」
「――ねえ霊夢。貴女いま『どう反応するのかを視て愉しんでいる』って云ったわよね」
「云ったわよ。なにレミリア。そいつに心当たりがあるの!?」
 イラつきは頂点を目指し、今にも噛みついてこんばかりの脇巫女にレミリアは云った。「心当たりも何も。それってスキマ妖怪のことじゃないの」
「紫ね。それなら違うわ。だってアイツ、いつもこの時期は冬眠してて春先まで姿を現さないじゃない」
「でしたらお嬢様。これはスキマ妖怪に似た、何かですね」咲夜が云い、
「うわ。それは物凄くタチが悪そうだぜ」魔理沙が呟いた。

 しかし、これをきっかけに「いかにスキマがタチが悪いか」「いやいやそれしきのスキマ体験など、私の体験談に比べればまだまだぬるぽ」「猫ってヒゲ切ったら巧く隙間を通れなくなるだろ? アイツが寝ている間にヒゲを剃っちまえばいいんじゃね?」「シモネタ禁止!」等々、具体的な内容はここでは明かさないが、四人のお喋りは徐々にヒートアップしていった。余程、日頃の鬱憤が溜まっていたとみえる。

 いやあ。愛されているなあ、ゆかりん

「剃るも剃らぬも、もしも日頃からつるんつるんにしててスキマ力をセーブさせていたらどうします? 今でも手がつけられないぐらいの『スキマぱぅわー!』なのに、お手入れに手を抜いてジャングル妖怪になったら、もう誰にもとめられなくなるわ」
 このメイド長、いったい何処のどんな状態を力説しているというのか。

 だがしかし。乙女の秘密ちっくなアンダーゾーンの会話はここまでだ。此処より先は、洒落にならんからな。
 そう云って(云ってない)四人の頭上、遥かな天上で何かが炸裂した。そう、異変だ。

 雲が文字を列する。守矢が戦争を訴えかける。

 しばらくして西側に新たな文字が刻まれた。雲底をスクリーンに、地上から伸びたライトライン。光はうねりくねり、即座に達筆な文章に生まれ変わる。
 ALAS(災厄が来た)、ALASと繰り返す。新約聖書。黙示録である。『大淫婦バビロン(ローマ帝国)は誰なのか?』

「あれはパチュリーね」西方の空を見上げ乍らレミリアが呟いた。「駄目よパチェ、闇の眷属同士の会話じゃあるまいしそんな遠回しな表現では通じないわ」

 かなりの間を置いて、雲が返す。『Who are you?』

『Patcho パチュリー・ノーレッジ。紅魔館の魔法使い。そちらは守矢神社の神様達でいいのね?』
『yes』
『いま立川で足止めを食らっているの。だからこんな形式で失礼するわ。幻想郷で戦争が起きているのね?』
『yes』
『この結界で閉ざされた東京は敵の仕業?』
『yes』
『現在、幻想郷はどうなっているの?』
『Hakurei-Def “F5 Attack”』
『博麗――大結界ね。御免なさい、後ろの概念は判らないわ』
『Blockbreak → ing』
『現在進行形で大結界が攻撃を受けている?』

「まだるっこしいわね」言うが早いか霊夢が飛び立つ。天上へ。「行くわよ魔理沙。このままぽかんと大口を開けて空を眺めているより、直接会って問い質した方が早いわ」
「おう、行くぜ。レミリア達はどうするんだ?」
「行くわ。何やら面白そうなことになってるみたいだしね。咲夜、貴女も来なさい」「はい畏まりましたお嬢様」



■東京・天上
 早苗がかなり危うい英語でパチュリーとたどたどしく交信(コンタクト)していると、霊夢を先頭にして四つの点が人形を取りつつ急速接近してきた。「ドロワね」「ドロワだぜ」

霊夢さん! 神奈子様、諏訪子様っ、釣れた、釣れましたよ! 大漁ですっ」「これまた吸血鬼とは大物だね」「外道だけどね」

「誰が外道ですって?」
「ああ、お前さんは釣りを嗜まないのか。外道というのはね、目的魚とは違う獲物を釣れたことを指しているのさ。気を悪くしたならすまんが、我々の目的は吸血鬼ではなく、鬼なのさ」

 レミリアと神奈子が対峙し、軽く牽制しあうのを無視して霊夢は早苗に詰め寄った。「挨拶は抜きでいいわね。一体何が起きているのか、知っていることを洗いざらい吐け」有無を云わせぬ圧倒的な迫力。唯そこに佇(い)るだけで強さの格が、存在の立ち位置がまるで違うと訴えている。

 信仰(群れ)に依存する現代っ子ひ弱な現人神と、空洞(うつほ。空きっ腹)の賽銭箱(乳飲み子)を抱えた博麗の巫女(乳なし脇だし)。

 所詮はビニールハウスの美味しい果実が、野生の王国の花一輪に敵う訳がないのだ。ないのだ。

「白状しますから、命ばかりはっ」「何の話よ」



 ☆ ☆ ☆



「実は――」「おっと待った。どうせならパチュリーにも聞かせてやってくれ。そっちの方が手間もかからないぜ?」
 呟き、魔理沙はエプロンのポケットから携帯式送受信通話機(マジカル☆トランシーバー)を取り出した。外の世界のストレート式携帯電話に酷似しているが、基地局を必要とせず、所有者の音声を魔力に置き換え、これを無線信号に変換して端末同士で他方向通信を行う機器である。端末毎に四桁の数字が割り当てられており、魔理沙の識別番号(シリアルナンバー)は「0001」、パチュリーは「0002」である。ドットの粗いモノクロのディスプレイには識別番号と保有者の登録名、それに通信状態が表示されている。製作者である河城にとりの「0000」端末(ポケコンスタイル)に予め登録されている識別番号端末としか通信できないデメリットはあるが、魔力の続く限り事実上バッテリー切れを起こすことはありえない。電話ではないので基本料も通話料もかからない。
 幻想入りした野戦電話から着想を得てにとりが作ったものの、魔理沙に「話があるなら、私ならひとっ飛びで会いに行くぜ」と云われ、それもそうだよねーと河童が落ち込んだのも今となってはいい思い出。貰ったその日からポケットに入れっ放しになっていた秘密道具の晴れの舞台である。

 早速「0002:は°ちぇ」を呼び出そうとし――た魔理沙の腕を、がっしと鷲掴んだのは早苗さんである。

「なんですかそれ、なんで魔理沙さんがケータイなんて持ってるんですかっ、というか私も欲しいです!」「ぬを!?」

 見た感じ旧式、PHS時代ぐらいの単純(シンプル)携帯電話に見えなくもない白黒模様(ゼブラカラー)のトランシーバーに目を輝かせる現代っ子

 飢えが強さの証明(あかし)だと云うのであれば。「今なら勝つる!」「だから何の話なのよ」

「おお、早苗が!」「『欲しがりません、勝つまでは!』と誓って、外の世界の物欲を捨てて幻想郷入りした早苗が!」

 神奈子と諏訪子、早苗の変貌に大いに驚き、且つ喜び泣いた。守矢再興を悲願として以来、我欲をひた隠しに隠し、こころを押し殺して二人の神様に仕えてきた娘が、今、素の感情を剥き出しにしていることが嬉しいのだ。

魔理沙。悪いがその道具、早苗に譲ってくれやしないかい? お願いだよ。礼はうんと弾むからさ」
 今なら自分達に仕えてくれている大切な唯一人の巫女のために、二柱の神々は土下座でも何でもするであろう。

「いや。こいつは私の魔力と同調しているんでな、他人には扱えやしないんだ。あーでもにとりに云えば、あいつのことだからきっと喜んで貰(く)れると思うぜ? 三人分」

 ちなみに霊夢は「いらない」の一言で河童を返り討ちにし、萃香は「そんなのより酒呑も、酒!」と打ちのめした経緯がある。そんなわけで無線機を所有しているのは「0003:こあくま」「0004:ありす」「0005:もみし”」「0006:あややや(カメラ内臓の特注)」で頭打ちであったりする。『文々。(ぶんぶんまる)新聞』にも紹介記事を掲載してもらったことはあるのだが、生産した初期ロットはかなりの量が眠っている筈だ。

「神奈子様! 諏訪子様!」「みなまで云うな早苗」「わかってるよ!」

 二人の神々は肯きあい、天空に河童を呼ぶコールサインを打ち出した。『N・T・R』、『N・T・R』



■東京・秋葉原
 背中のバックに丸めた設計図を突き刺し、大通りの路上で白黒車両を改造して空も飛べるし赤色警光灯からマスパも撃てる『チキ・チキ・バン・バン魔理沙号』を組み立てていたにとりは、作業が一段落したところで遅めの昼食を自前の弁当で摂っていた。麦飯、胡瓜の味噌和え・胡瓜の浅漬け、胡瓜のサラダ・胡瓜の蜂蜜漬け、麩の味噌汁で構成されている重箱風ランチジャーを広げ『世界一栄養が無い野菜(ギネスブック認定)』に舌鼓を打っていると、おもむろに顔を上げて空を見上げる。

『N・T・R』、『N・T・R』

「もぐ……?」

 誰かに、呼ばれているような気がしたのだ。

「――寝(N)取(T)られ(R)?」

 腐っていた。弁当ではない。魔法瓶様式の弁当箱も、お弁当も、完璧だった。作った本人を除いては。
 きっとバッグの中身は夢と同人のお宝グッズでいっぱいになっているに違いない。
 って、ちげーよ家電製品だっていってんじゃねーかっ。



■東京・天上
「遅い!」×3

 早苗から説明を受けた霊夢魔理沙(と無線機越しにパチュリー)の、第一声が突っ込み(それ)だった。納得いかねえ。

「な、なんでですかっ!? この結界を無力化するには萃香さんの力を借りるのが最善手だって藍さんを通じて紫さんが、」
「それが遅いって云っているのよ。あの子のことだからあんた達が起こした雲の異変に首を突っ込んできてもおかしくないっていうのに、未だに姿を見せず雲隠れをしているってことは何処かの建物の中か地下の何処だかにいる可能性が高い。真っ当に捜してたんじゃ時間を浪費するだけで無駄よ」と霊夢が云い、
「私らもこっちに来てからすぐに萃香と逸れちまったんで、アイツの居場所は見当もつかない。だが結界をどうにかするっていうんだったらもっと確実な手段がある」と魔理沙が断言をし、
「確実な手段? 力尽くで結界を破壊するっていうんなら却下ですよ? 確かにごり押しで『穴』を開けられましたけれど、私達ができるのはその程度。完全に破壊するのには程遠く、完遂するまでに博麗大結界を乗っ取られるほうが早いでしょう」と早苗が抗弁をし、

『違うわ』喘息で乱れる息を整え、間を置いて無線機越しにパチュリーが告げる。『東京を破壊するのよ』

 早苗が、神々が息を呑んだ。それは彼女たちが最初に考え、即座に否定した案(プラン)と同じであった。但し、発想のレベルがまるで違う。

 霊夢は云う。「あんた達も知っていると思うけど、結界とは即ち『内と外を隔てる境界』。外側か、さもなくば内側のどちらかが消滅してしまえば意味をなくす。消滅するわ。だから結界の容物(なかみ)を粉砕する。跡形もなく。雲隠れしている萃香を捜すよりも、東京を破壊するほうが確実に早いわ」
「待った。お前さんたちは知らないだろうが、ここには数百年以上も前から祟り神が魔方陣で括られているんだ。東京を破壊したら、自然と奴が現れる。――これも敵の姦計の一つだろうけどね」
 苦々しげに神奈子が呟いた。

 時を隔て、現在でも畏怖の対象とされる平将門
 時を隔て、忘却の彼方に追い逐られた八坂神奈子洩矢諏訪子

 もろに正面から対峙しあえば。勝算はまるでない。

「そうか。だったら、敵とやらの斜め上を行くまでだぜ」
 魔理沙が叫んだ。
「どっちみち、もう遅いぜ。東の彼方――見えるだろう? 向日葵と篝火花が暴れている。既に幽香が暴れているんだ。あいつがどうやって敵のことを知ったかなんてどうでもいい、魔方陣を守り抜くためにお前ら幽香を止めてみるか? この街に傷一つつけることなく」
 胸の前で組んだ両腕。神奈子が拳を握り締めるのにもかまわず魔理沙は続けて云い放つ。
「私らは東京をぶっ壊す。神奈子達は祟り神とやらを潰してくれ。頼まれてくれるよな?」
「……。」
 視線を、意思をぶつけ合う魔理沙と神奈子。神と比較(くら)ぶれば人間など、なんと脆弱にして儚いものか。しかし魔理沙の双眸(まなざし)は決意を宿し、根性が居座り、度胸が居直っていた。秘策なし。奇策なし。無謀ともいえる。
 誰がそいつにのるものか。
「――――。」
「っ、返事を訊かせろ! 神奈子っ」

「諏訪子。早苗。胆(はら)を括るよ」ひどく静かに、軍神が戦鬨(とき)の声を挙げる。「平将門を討つ」

「神奈子様、それはっ」
「どっちみちそれしかないんだ。早苗、偽りの東京なんかくれちまえ。今の私らにはもっと大切なものがある」
「護るよ早苗。幻想郷を」
 帽子の唾を調節し乍ら諏訪子が云う。強がりを云い乍ら、嗤っていた。「あたしと神奈子がいて、早苗がいるんだ。どう転んでも負け戦になんかなるわけがない」
「でも諏訪子様。膝が震えて、」
「これは武者震いだようっ」
「これこれ早苗、あんまりケロちゃんを虐めるものではないよ。というわけで祟り神退治は神々(あたしら)が引き受けた。霧の字よ、卑しくも神の前で大言壮語を吐いたからにはくれぐれも失敗す(しくじ)るんじゃないよ」
「ぬかせ。――そういうわけでパチュリー。おっつけ助っ人を寄越すまで西部方面は任せたぜ」『わかったわ』

 無線を切る。やおら魔理沙が永遠に紅い幼き月に向き直る。「聞いての通りだ。私が何を頼みたいのか、解るよな?」
「云ってごらん。今日は気分が好いから話し次第では利いてやらないこともない」
「フランは何処に居る。お前の妹の力を借りたい。――どうせ連れて来ているんだろう」
「どうしてそう思うのかしら?」
「惚けるなよ。お前が居て、咲夜が居て、パチュリーが居る。紅魔館にフランが居るとしたら、誰がアイツを止められるんだ? 美鈴か? まさか。あいつじゃ無理だね。気が読めて優しすぎる」
「優しい? 門番が?」咲夜が嘲笑う。「強いものには弱いだけじゃないの。弱くて甘くて仕事中よく寝る。妹様を止めるのは確かに門番風情には無理ね」
「お前らもアイツの本当の実力(つよさ)を知っているだろう。なんたって門番を任せているぐらいだからな。甘いというが、その甘さがあるからこその紅魔館だろう? なにしろアイツが招かれざる来訪者(私ら)を職務に忠実、融通も利かせずに問答無用で撃退(シャットアウト)していたら、レミリアなんか退屈で死んじまうんじゃないか?」
「ズケズケとよくもまぁ云ってくれるわね。でもまあいいわ。フランなら門番と一緒に此処に来ているわ。でも残念。何処に居るか迄は判らないわよ」

 魔理沙が僅かに落胆すると、ポケットに仕舞い込んだ無線機から呼び出し音が鳴り響いた。

「誰だ? ってアリスか」ディスプレイで相手を確かめ、「どうしたアリス。悪いが今こっちは取り込んでて――」
魔理沙! あんたたち東京を壊すって本当なの!?』
「――話が早いな。パチュリーにでも聴いたのか」呟き、ふと疑問を抱く。「ところで何処に居るんだ?」
『有楽町の地下駅って云ったらわかる? それよりもさっきの話、なんとか先延ばしに出来ない?』
「それは無理な相談だぜ。というより外野が五月蝿いぜ。アリスのほかにも誰か居るのか?」
『あ、ごめん。魔理沙と話すって云ったらフランが私もお喋りしたいってきかなくって……ちょっと美鈴、もう少しフランを押さえててくれないかしら。これじゃまともに会話が出来な――』
「フランが其処に居るのか!?」
 驚いた。神の配剤か悪魔の仕業か、そういやどっちも知り合いに居るなと混乱しつつ、魔理沙は目線でレミリアに尋ねる。「お前の能力(仕業)か」と。『運命を操る程度の能力』の持ち主は日傘の下でほくそ笑むだけで真面目に応えようとはしなかった。
 この際どうでもいいことなので気にも留めない。「アリス。フランと代わってやってくれ。アイツに話があるんだ」『いいけど。……壊さないで使ってくれるかしら』
 おそらくはブルーとホワイトのツートンカラーの無線機(縞パン迷彩というと酷く怒る)を差し出して使い方を教えているのであろう的な間を置いて、フランドールの声が出た。『魔理沙、やっほー。こんなのでお話できるなんて不思議だねー?』
「声がでかい。鼓膜が破れるかと思ったぜ。ちょっと離れて喋ってくれ」
『美鈴、もうちょっと後ろに下がってだって。この機械、アリスのものだからアリスが持ってないと動かないんだって。いいなーわたしも欲しいなー。この機械があればお部屋に閉じこもっててもお喋りできるんだよね。今ね、わたし美鈴に後ろから持ち上げられてお話ししているのよ』
「お前が欲しがってるってこと、にとりに伝えとくぜ。きっと象が踏んでも壊れないぐらい頑丈なのを作ってくれる。……いやそんな話は今はどうでもいいんだ。フラン、力を貸してくれ。東京をぶっ壊す」
『んー、建物よりも生き物のほうが遊べるから面白いんだけどな』
「……。」
『でも魔理沙の頼みだから、そっちも手伝ってあげるね?』
「……そっちも?」

 訝む魔理沙。と、有楽町方面から豪快な破壊音がしたかと思うと、瓦礫を量産させつつ普段着に陽射し避けのスモッグ・コートを被った三体のフランドール・スカーレットが空中に飛び出してきた。きょろきょろと周囲を見回したのも一瞬で、目敏く魔理沙の姿を見つけるや高速で飛び込んでくる。
「やっほー魔理沙!」「おま…、スペルカード発動中か!?」

 禁忌「フォーオブアカインド」

「無抵抗な大っきいだけの建物なんか、スペルカードが使えなくたって平気でしょ? で、どれを壊せばいいの?」
「全部だ、全部。食い残しはなしだ。丁度良い、三方に散らばって一人はまだ立川――『穴』の辺りの場所に居るパチュリーの支援を頼む。他の二人は目についたものから手当たり次第にぶっ壊してくれ」
「はーい」
 衝撃波と弾幕をばら撒き乍ら破壊の申し子が縦横無尽に飛翔する。少女に毀せないものがあるとすれば、それは不壊の物質か不死者ぐらいのものであろう。

「それじゃ私もいっちょう暴れるとするか」
 颯爽と箒に跨り、ミニ八卦炉を掌に収めた魔法使いの背後に、呼び止めるでもなく霊夢が声を投げた。「魔理沙。そっちはあんた達に任せるから」
「なんだって?」
 思わず振り返る。霊夢は再度繰り返した。「私はパスするわ。東京の破壊も祟り神の調伏も手を出さない」
 霊夢の言動に思わず剣呑な形相で何か返そうとした魔理沙だが、巫女の眼差しに何を感じ取ったか破顔する。「おう、任されたぜ!」
 叫んだのも一瞬で、すぐに点となって火力の魔法使いは見えなくなっていた。

「珍しいじゃない。貴女が異変を前にして怖気づくだなんて」
 からかうような咲夜の口調に動じず、魔理沙の見えなくなった方向を見据えたまま霊夢は呟いた。
「おかしいと思わない? あの紫が、私や魔理沙でも思いつくような最良の手段を見逃していたなんて」
「単に寝ぼけていて調子が出ないだけでは? 今の時期にスキマ妖怪が活動しているなんて前代未聞のことでしょう」
「あんた完全に寝入っていた丑三つ時に叩き起こされたとして、レミリアが危険な目にあっていると知る。その時あんたは敵の排除に実力の半分も出せないわけ?」
「それは――ありえないわね」
 でしょう。と、霊夢は咲夜に向き直る。「紫(あいつ)にとって幻想郷は最愛の存在。我が子も同然と断言して良いわ。幻想郷(それ)が存亡の危機に立たされているというのに、実力の千分の一も出せないなんてどう考えてもありえない」
「……霊夢は随分とあのスキマ妖怪の実力を買っているようね」
 どことなく拗ねた様にレミリアが口を挟む。
「だって当然でしょう。私や魔理沙がせいぜい五手先、十手先しか読めないところをあいつや幽々子なんか平気で千手先は見透かすわ。パチュリーなら百手、調子が好い時でも精々五百手先ぐらいかしら。レミリア。『運命』とやらを操れる能力も加味して、あんたはいったい何手先を視ることができる?」
「む」
 可愛らしい八重歯を剥き出しにして、レミリアが詰まる。
 ここぞとばかりに霊夢は畳み掛けた。「この際だから云っておくわ。八雲紫西行寺幽々子。ついでに八意永琳。この三人にあって、あんたに決定的に欠けているもの。……なんだかわかる?」
「な、なによ。云ってみなさいよっ」
 真っ向から足りていないものがあると指摘され、悔しさで瞳が危険な色彩を帯びる。しかし激昂することは霊夢の言葉を認めるのも同然なのでこれも癪に障り――レミリアは歯をかちかちと鳴らし乍ら吼えるにとどまった。
 霊夢は、云った。

「腹黒さ、よ」

 一瞬、きょとん、とするレミリアだったが。唇許が緩んだかと思うや、唐突に噴き出し空中で身を捩り乍ら笑い転げた。
「そうよねえ、あいつらの腹黒さには確かに負けるわ。うん、認める。ああやっぱり霊夢は最高だわっ」
「そらよござんでしたね」
 レミリアの機嫌が良くなるにつれ、何故か咲夜の機嫌が悪くなったりする。なんだこの主従。
「おそらく紫は私達にも何か手札を隠している。敵の正体も、思惑も未だ見えない。何も解らないままどっちの掌の上で踊るのも癪だから、私は様子を見ることにしたのよ」
「スキマの思惑はともかく、敵の目的は幻想郷の崩壊では? 博麗大結界を狙っているのでしょう?」
「違うわね。これだけのテクノロジーを持っているのなら、幻想郷が狙いなら私だったら日本を沈没させる。その方がより確実でしょう。防ぎようがないし、私達にはお手上げだわ」
「うわ」
 この巫女アブねぇとばかりに咲夜が一歩後ずさる。
「はいはい立ち話はここまでよ」目尻の涙を拭き乍らレミリアは提案した。「地上に降りてお茶にするわ。咲夜、頼んだわよ」「はい。かしこまりました」
 二人に続いて地上に降り立とうとした霊夢だが、――愕然と天上を見上げた。

 立ち止まり、ようやく気がついた。
 目に見えていても目に留まらず、結果として見えていなかったものを今更に凝視する。「なんで、月が出ているのよ……っ」

 此処は結界の中だ。曇り空ぐらいには明るくとも、けして外の太陽の陽射しが届いているわけではない。ましてや残月が空に浮かんでいることなど、あるわけがない。

 ならば。あの月はなんだ。
 なんだ。ということはない。つまりは、それが、「――敵」の正体である。

 なんということもない。敵は初めから姿を晒していたのだ。正々と。堂々と。

 あまりにも単純明快すぎる結論に、霊夢はしばらくの間、呆然と釘付けになっていた。

「どうしろっていうのよ。あんなの」

 あまりにも巨大で、遠く、出鱈目な存在に。

「はあ。私もお茶にしよっと」

 あっさりと思考を放棄し、霊夢は紅魔館の主従を追って地上へと向かった。



■白玉楼
 季節を先取りした満開の桜。その中にあって、けして開花することのない西行妖。かつてフラワーマスターが果敢にも挑み、彼女に苦々しい屈辱を味合わせたことは未だ記憶に新しい。
 庭を見渡せる床の間に佇む西行寺幽々子。その目の前には碁盤がある。対座には座布団が敷かれているが、

 天元(中央)に一つ、本来は後手であるはずの白石を碁笥から取り出して配置する。
「冬眠から起こされた紫は狐の報告を受けて現状を把握する」

「征服欲の強い紅魔館は逸早く上京。それとも誰かの差金かしらね。幻想郷に残った主力となる手駒は守矢神社と永遠亭。前者を東京に対して、後者を月に対して活用する」

「東京――外来人が大勢いると目を輝かせて、人食い妖怪は喜んで飛び込んでいくでしょう。でも無人でお腹は膨れない」

「誰かお人よしが宵闇に食料を分け与えるかしら。そうなれば幼さのある子だから、きっとその者に懐いて行動を共にすることになるでしょうね」

萃香捜索の依頼を受けて上京した守矢は、中心で異変を起こす。それが元で先行していた博麗の巫女と魔法の森の魔法使いと接触を果たす」

「紫の計画を彼女達は一蹴するでしょう。それでは間に合わないと。短絡的に東京の破壊を決行する」

「否応なく守矢は魔方陣が解けて出現する祟り神と対峙する。そのとき、お人よしとルーミアは巻き込まれる。ルーミアはお人よしを庇って負傷する。――封印のリボンが外れるわね」

「それ自体はどうでもよいのだけれど、そのまま幻想郷に戻ってくると拙いのよね。紫の稚拙な計画に不信感を抱いた巫女は静観を決め込むだろうし、魔法使いは破壊活動に夢中で気がつかない可能性が高い。では紅魔館の吸血鬼が? 烏天狗が? まさか。不確定要素がありすぎる――ならばそのお人よしの役割を妖夢に担ってもらいましょう。リボンの封を戻すために」

「東京は壊滅。祟り神は退治される。かくして中身を喪った円筒結界は存在を維持できず、――そのままでは済まないでしょう。おそらく最後の決戦がある」

「私が出来るのはここまでよ。紫」

 碁笥から一つ、黒石を摘む。白石の隣に配した。

「わかっているでしょう。敵の狙いは幻想郷じゃない」

 その黒石はどれだけ離れていようとも。その白石の隣にあらねばならない。

「いなくなったら許さないんだからね」

 対座には座布団が敷かれているが、座すもののいない座布団の傍らに、紫の愛用する湯飲みが甘酒を注がれて置かれている。



■東京・霞ヶ関
 歩道に迫り出した円いテーブルに三つのカップ。茶器は此処の喫茶店の物を借用したコーヒーカップだが、湯気を立てている紅茶は咲夜が紅魔館で淹れて香霖堂から購入した魔法瓶で持参したものである。
レミリア。月が出ているわ」
 着地するなり傍で呟いた霊夢に、レミリアは意味ありげな視線を送った。「あら。ようやく気がついたの?」
「って、あんた知っててずっとすっ呆けてたんかい」
「まあね。それよりも霊夢も座りなさいよ。せっかくの紅茶が冷めてしまうわ」

 霊夢は薦められるまま、紅魔館のものよりも見てくれも居心地も悪い椅子にどっかと腰を落とす。

「淹れ立てを味わって頂けないのが残念ですが。店内にはケーキなどがありますが、安全性を考慮すると手をつけないほうが無難ですね。お茶菓子が欲しければ自己責任でお願いします」
「あんた達、随分と落ち着いているわね。敵が頭上に居座っているっていうのに。気にならないわけ?」
「敵、ね」
 紅魔館の主人とメイド長は互いに目配せをする。揃ってほくそ笑んだ。
霊夢は敵のことばかり気にするのね」
「だって当然でしょう。幻想郷が喧嘩を売られているのよ」
「あら。敵の目的は幻想郷ではないと断言したのは貴女ではなくって?」
 軽々しい咲夜の口調に霊夢は唇をへの字に曲げる。

「たとえば」とレミリアは云う。「もしこれが私に対する喧嘩なら、当然買うわ。フラン。パチェ。咲夜。美鈴。小悪魔。名前なんか憶えてらんないメイド妖精達に対する喧嘩でも、それが紅魔館に対するものと私が認識したならば、私は逃げも隠れもしない。喜んで正面から迎え撃って出ましょう。ねえ霊夢。敵、敵、敵、と貴女は云うけれど――あれは誰の敵なのかしらね」

「誰、って」
「お茶でも飲んでリラックスして。少し考えればすぐにわかるわ。この状況にあって、応戦に尤も精力的に動いている奴は果たして誰なのか」
「……っ! それって、」

 たとえば、そう。この時期に冬篭りしている筈の妖怪。

 吸血鬼は不敵にかまえる。「霊夢。なんだって私がアイツ(八雲紫)なんかの為に矢面に立って戦わなければならないわけ?」

 暫くの間レミリアを睨んでいたが、おもむろに目の前のコーヒーカップを掴むと霊夢は一息に飲み干した。
「アイツあちこちに顔が広いとは思っていたけど、なに? 月にまで喧嘩相手がいるってわけ?」
霊夢は知らなかったかしら。あのスキマ妖怪、だいぶ昔に意気揚々と月に乗り込んでいって、不様にボロ敗けしたそうよ。――今回も既に勝ち目はなくなったわ」
「アンタ、もしかして」霊夢は目線でレミリアに問いかける。視たのか、と。『運命』を。

 永遠に紅い幼き月は唱う。「訊きたい? 予め断っておくけれど、これまでの出来事、これから話すことは全て月(敵)に筒抜けなのを承知しなさい。いいわね」
「わかったわ」

 レミリアは小顎を薄く上に傾け、咲夜を招く。と、次の瞬間には先端に火の彩を灯した一二〇ミリと細長いチョコレート色の紙巻を唇端に銜えていた。紅玉色のガス式白金ターボライターを咲夜が瀟洒に仕舞い、メープルシュガーのような仄かな甘い香りが周囲に漂う。日本国内では既に廃止銘柄となっている煙草『JOKER』である。一部では「伝説の煙草」とされており、つい最近になって幻想入りしてきた。その後継銘柄として愛煙家の間ではウルグアイ産の『アーク・ロイヤル・ワイルドカード』が知られているが、味の評判の方はどうも芳しくはない。

「スキマ妖怪の完全勝利。これは『結界』が出現してほぼ二十四時間、誰もちょっかいを出さずにいることが成立条件だった。これだけの大規模な『結界』の二重構築展開と、維持。加えて月からの遠隔誘導――機能を多く持たせた所為で稼働時間が極端に犠牲になっているの。五百年掛かりの計画も、丸一日、たった一日のあいだ放置されることで失敗に終わる筈だった。戦利品として幻想郷には箱庭の東京という新名所が加わる筈だった。しかしこれは異変解決という名目であんた達が手を出したことで、すべて台無しになった」
「う。だってしょうがないじゃない」
「もう一つの勝利条件。これは拡散した『雲』の雲塵を再封して『結界』の稼動限界まで維持すること。これは先刻、霧雨魔理沙が成立要件(フラグ)を叩き折った」
「え?」
魔理沙人形使いに確認したわ。『アリスのほかにも誰か居るのか』って。もう少し注意深く振舞っていれば、フランの他に伊吹萃香もその場に居たことが判ったでしょうに」
「っ!」
 ガタン、と椅子を倒して立ち上がる博麗の巫女。その首筋に、同時に紅魔館のメイド長が銀のナイフを突きつける。かまわず霊夢が声を荒げた。「あんた知ってて黙っていたワケ!?」
「云ったでしょう。月が視ていると。監視されているのが判っていて、どうして私の手札(能力)を晒す必要があるの? お気に入りの東京の紅魔館を手放すことと引換えにしても、月の連中にこちらの意図を悟られるわけにはいかなかった。ついでに云えば私とスキマ妖怪はけして友好な関係を築いているわけではないわ。幻想郷の生みの親、育ての親としては敬意を表しても良いけれど、進んでアイツの戦争に協力する気なんか、これっぽっちもない」

 巫女と。吸血鬼と。吸血鬼に仕える完全な従者。三人の間に険しさが高まる。

 レミリアは云う。「最後の勝利条件。これは博麗霊夢が鍵を握っている」
「何をさせようって云うのよ」
「何も」

 レミリアは立ち上がる。銜え煙草を指に持ち替え、乱杭歯を曝け出し、顔を近づけ、耳元で甘い声色を囁きたてる。

「何も。何も。何もしてはならない。最後に至るまで、最期に八雲紫がどんな具合に屍を晒そうとも、けして貴女は動いてはならない。けして貴女の手札(能力)を曝け出してはならない。云い方を変えましょう。博麗霊夢が見殺しにすることで、八雲紫は辛うじて勝利者となる。それが出来たら、私は紫の遺志を継いで貴女を絶対に月に往かせてみせる。今日から一年以内に、必ず、貴女を敵の眼前に立たせてあげるわ」

 既に別人の形相で霊夢が恫喝した。「ふざけんな」

「幻想郷の如何なる能力の所持者も、月には届かない。此度の戦争はけして勝ち目のない戦争なのよ。月にまで乗り込んでいかなければ敵の喉笛には絶対に届かない。次の戦争に勝つ為には、今は能力をひたすらに隠し通し、温存することが不可欠よ。博麗霊夢は幻想郷きっての鬼札。今は切れる手札(カード)じゃない」
「戦争なんか知ったこっちゃないって云ってんでしょうが!」

 霊夢の咆哮は、爆音に巻き込まれ、掻き消された。地上の三人の姿は獰猛な弾幕に掻き消されてしまった。

 空襲。



■東京・全域
 空襲が始まる。東京大空襲が。

 三条の彗星。一条の流星。無尽蔵の弾薬を抱えた少女姿の機影(Ju87:シュトゥーカ)が、あてずっぽうに光弾を降り注ぐ。射線に並ぶビルを貫き、ガラスを粉砕し、鉄骨を折り曲げ、ケーブルを切断し、アスファルトを穿ち、鉄橋を崩落(おと)し、車道に停止したままの車両の群れを爆撃し、線路を寸断し、駅を瓦礫と化し、地中深く埋設されたパイプラインを溶かし、熱屑の濁流を地下施設へと注ぎ込む。地に建つ物、天上へ伸びる物、縦横を結ぶ物、空中に築かれた物、地中に埋設された物。目に止まる物。隠されている物。それらの尽くが攻撃の対象となり、爆撃を受け粉微塵となり、ただ掠めただけで衝撃を受けて粉砕される。見よ、爆煙が上がり、火柱の上がる様を。炎は壁と為し、火の粉が榴弾の如く舞い昇り容赦なく地上に叩きつけられる。瓦礫は津波と化し、周囲に襲い掛かって更なる被害を波及させる。鉄の灼ける臭い、ゴムの灼ける臭い、プラスチックの灼ける臭い、紙の焼ける臭い、否、否、否、最早かつてはなんだったのかすら判らない物共があちこちで燻り、黒煙を上げ、炎を吹き出し、熱気の壁が空に立ち込め、重量のある燃え滓が地上に積み上げられては自重で崩れ、道路を割って地下へと墜ちて逝く。

 ラッパが鳴る。ジェリコの城壁を突き崩したラッパが東京に響き渡る。

 五十の地方道が、十六の特例主要地方道が、二百三十二の一般都道が、二十二の高速道が、京浜急行線が、東海道線が、横須賀線が、京浜東北線が、東急線が、小田急線が、京王線が、中央線が、西武線が、東武線が、埼京線が、宇都宮・高崎線が、常磐線が、京成線が、総武線が、京葉線が、武蔵野線が、大師線が、山手線が、次々と細切れに分断されてゆく。首都機能を支える大動脈が至る箇所(ところ)で消滅してゆく。

 綾瀬川が、荒川が、有明西運河が、内川が、江古田川が、江戸川が、海老取川が、大横川が、小名木川が、垳川が、葛西用水路が、亀島川が、烏山川が、神田川が、笹塚支流が、北沢川が、旧江戸川が、旧中川が、左近川が、汐留川が、東雲運河が、渋谷川が、石神井川が、石神井用水が、蛇崩川が、白子川が、新河岸川が、新川が、新中川が、隅田川が、仙台堀川が、善福寺川が、外濠が、立会川が、竪川が、多摩川が、玉川上水が、築地川が、伝右川が、豊洲運河が、中川が、日本橋川が、野川が、呑川が、花畑運河が、晴海運河が、丸子川が、妙正寺川が、目黒川が、谷沢川が、谷端川が、横十間川が、煮え滾る光景を見たことがあるか。

 弾幕を、疾風怒濤の弾幕を、剣林弾雨の如き暴力を地表に向けて容赦なく開放すれば、こうなる。一切の手加減なく、遊びではなく、持ち得る能力の全てを開放し、全開にし、大量の、大量の、大量の弾幕を、唯唯、破壊目的で其等の尽くを間違いなく炸裂させればこうなる。なるに決まっている。

 けれども全方位に拡がる無限大(ウロボロス)の建築群(・オフィス)を粉砕するには、無尽蔵の弾幕如きでは足らぬ。足らぬ。徹底的な大打撃は与えられても決定的な一撃には、致命的な一撃には遠い、程遠い。吹き飛ばした瓦礫で林立するビルを蜂の巣にしたところでそれは崩れず、空中を高速で駆け抜けて擦違い様に擦過傷を深く刻んだところでそれは致命傷(クリティカル)には至らない。吸血鬼の分身がはしゃぎ、魔法使いは舌打ちをする。足りない。まだまだ足りない。

 東京を消滅させるには結界を消去させるには圧倒的に火線(シューター)が足りない。

 魔理沙の苛立ちを嘲笑うかの如くあちらこちらで東京は炎をあげている。数十数百数千もの赤い舌を蠢かせて哄笑していやがる。

 かつてのあの日と同じように。東京が燃えていた。
 今にも(否、)燃え尽き(否、)朽ち果て(否、否っ、)陥落しようとしていた。
 否!



■東京



 首都・東京。
 その何処かで。何かが。
 何かを戒めていた鎖が爆鎖し。何かの拘束が解かれ。何かが起動する。

 何処かで。ゆ。鐘(ベル)が鳴り響く。ゆ。除幕の鐘が。ゆ。開幕の鐘が。ゆ。序幕の鐘が。「ゆ」



「ゆ」



 稼動する。噴き上がる。火柱が建つ。
 黒き炎(ジェットセットブラック)が壁となって雄雄しく立ち塞(はだ)かる。



「ゆっ」



■円筒状結界前
 ドラム缶を使った焚き火が豪快に燃え上がる。この鋼鉄の缶がいつ幻想入りしてきたのかは定かではないが、五右衛門風呂を筆頭として、見ての通りに焚き火、燻製作りの窯、バーベキューの炉、人里では瓦代わりの建築素材として応急的に流用されることもある。
 紫。藍。橙。三人の妖怪達は周囲に配したドラム缶で火を焚き、その中の一つ、ドラム缶の上に敷いた鉄板の上に土鍋を置いて、取り囲んでいた。ハムスターの着ぐるみ姿で。
「ああ温い温い。橙、そっちの胡麻ダレとってくれる?」「あ、はい」
「……紫様。なんで私ら湯豆腐に舌鼓を打っているんです? しかもこんな格好で」

 土鍋の中身は絹ごし。木綿。凍み豆腐。厚揚げ。それに湯葉とおまけに大量の油揚げである。これらを野菜出汁と一つまみの塩で煮込み、豆腐がぐらついたところを掬って平らげる。タレは擂り胡麻を合わせた酢味噌か、カボスの絞り汁などであっさりと頂く。薬味にカイワレ大根があれば尚嬉しい。

 何しろ熱が入りすぎるとスが入ってしまい味が格段に落ちるので、ある程度に温まったあたりが食べ頃とされる。猫舌の橙にも優しい鍋料理である。

「なによ。用意したのは藍じゃないの。私はお肉が食べたかったのに。あれは冬篭り前だったかしら、私が今日は冷え込みがきついから夕餉はお鍋したいっていったら貴女はそれはいいですねと云ったわよね。ええ今でも忘れないわ。あのとき貴女が用意したのはしゃぶしゃぶ。別にしゃぶしゃぶに文句はないわよ。暦とした鍋物だし。でもあれは本来なら夏に食べる物なのよ。俳句でも夏の季語だし。って別にそんなことはどうでもいいのよ。問題なのはあの時藍が用意した具材っ。しゃぶしゃぶといえばメインはお肉でしょう。だのに貴女ったら油揚げと薄切りにした川魚を大皿に盛り付けてっ。それって藍と橙しか喜ばないじゃないっ。不貞腐れていた私を貴女はさも我侭みたいにぼやいてたけど、あれってどう考えても悪いのは藍のほうだったでしょう」
「いい年して口をとんがらせないでください。いやいや私が云いたいのはそういうことではなく、」
「んー、でも美味しいからいっか。これでお酒があれば文句ないんだけどねー、お鍋で火照った身体に、お冷なんていいと思わない? 橙もそう思うでしょ?」「私、お酒屋にひとっ走り行って来ましょうか」「そう? それじゃお願いしちゃおうかしら」

「ちったあ自重しろよスキマ」

 油揚げばっかりつまんでいた藍が、主人の暴挙に遂にキレる。ハムスター姿で。
「戦時中だってのに酒はないでしょーが酒はっ。それとこの格好はなんだと申しておるのです!」

「だから寒かったんだってば。藍はあんな格好だったし。橙は猫だし、私は冷え性だし。まさか丹前(どてら)を着込んで戦争(ドンパチ)するわけにはいかないでしょーに」ところで藍は狐酒って知ってる?
「着ぐるみならアリなんですか」っと、なんですかその、剣呑な名の酒は。まさか私を酒に漬け込むおつもりですか。
「ありでしょ。だって可愛いし」そんなんじゃないわよ。厚揚げをよく焼いて上から熱燗を注いだものよ。油揚げの香ばしさに、豆腐の甘さ。たまらないわよ。
 ほほう。それは是非とも……っていやいやいや、今は駄目ですからねっ。
 ちぇーっ。
 ハムスター橙が藍を見上げる。上目遣いだ。「あの、藍様。私、可愛くないですか」
 大事なことなのでもう一度云う。上目遣いだ。

 う。
 やべえ。
 やべえよ。おい。楽園の素敵な猫天使(ちぇんじぇる)がいるよ。

「可愛いっ。橙は可愛い、可愛いよ橙はっ。あーもうこの子ってば私を萌え殺す気かい!? ダイブしてもいい!?」
「自重しなさい雌狐」

 厚揚げを齧り乍ら嘆息する。「まあでも、することはあんまりないのよね。『結界』の中では凄いことになっていると思うけど、外からじゃ加勢のしようがないし。それでまあ、独り者の嫦娥の前で家族の団欒をひけらかして弄ぼうっていうのがコンセプトなんだけど」
「流石は紫様。ひとの嫌がることばかりに頭を働かせて躊躇なく実行することにかけては定評がありますな」
「いやね藍ってば。そんなに褒められるとゆかりん照れちゃう……って何処も褒めてないじゃないっ」
「ほーら橙、こっちの絹ごしは食べ頃だぞぅ」「ねえちょっとは付き合ってよ」

 じろり、とハムスター藍は己が主人(ハムスター)を睨み据える。

「だいたいですね。私はその、嫦娥とか申す奴のことなど紫様から一言も聞き及んではおりませぬ。式(アプリケーション)は命(データ)を与えられて初めて式神ワークステーション)として機能するもの。何故、情報を与えては下さらぬのか」
「それで拗ねてたんだ。とは云ってもね、私も彼女のことはあまり知らないのよ」
「此の期に及んで、」
「いやいや本当だってば。私の識る嫦娥は、永遠亭の宇宙人達と同様に蓬莱の薬を服用した不老不死者だってことぐらい。千年前の月面戦争でも、彼女は能力ではなく月の技術を後方から駆使して、しかも月の連中に幽閉されていることもあってけして姿を晒そうとはしなかったわ。ただ厄介な相手っていうのは藍が身を以って知ったとおりよ。棋士に例えるなら名人級の穴熊使い。堅い守りを生かした大胆な戦法を得意とする老獪な策略家」
「して、その攻略法とは」
「通常は穴熊囲いが完成する前に速攻で叩き潰すのが上策(セオリー)なんだけど、それが既に無理。まあ今回はあの『雲』を排除した時点で私達の勝利という条件だから、温い戦(いくさ)よね」
「紫様のおっしゃる温い戦とやらで、私は危うく凍死しかけたわけですが。そういえば『雲』の化けた贋物の私に、守矢の神々が切札だと断言されておりませんでしたか?」
「流石に耳聡いわね。――『雲』の結界を排除する為に魔理沙達は東京を破壊するでしょう。結界の内部がある程度消滅したところで、魔方陣という鎖から解き放たれた祟り神が阻止の為に動き出す。千年余の信仰は伊達ではなく、生半可な戦力では太刀打ちできないわ。まともに遣り合えば、それこそ残機が幾らあっても足りないぐらいに」
「して、その切札が守矢神社であると? おかしくはありませんか? 信仰力を云々と申すのであれば、それこそ八坂も洩矢も勝ち目はない筈」
「と、嫦娥も考えているでしょうね。だからこそ私達がこうして湯豆腐を突いている間も、なんら動きをみせようとはしない。油断しすぎだわ。温い温い」

 カボス汁に三つ葉を浮かべ、酒に見立てて呑み干した。

「守矢は幻想郷の外から最近越してきた。当然、外の歴史を識っているわ。平将門がどう討たれ、どの様にして野心が潰えたのかを」

 ――。
 ――――!

 円筒状結界が突如、鳴動を開始する。氷壁に亀裂が疾り、次々と篩い落とされる。

「にゃ!?」
「! 紫様っ」
 狼狽する式と式の式(ハムスター×2)。

 嫦娥は強制的に結界を取り巻く氷箔を乖離させ、遠隔手動で雲塵を解き放つ手段に踏み切ったようだ。
 だが。

「遅い」

 紫(ハムスター)が一呼吸(ひといき)に斬り捨てる。

 円筒状結界の上空にスキマが開いた。落下してきたものは大きく見積もってもせいぜいが三メートル程度の、注連縄を巻かれた要石だ。半径三十km規模の大結界を拘束することなど、とても、

 ぴた

「えっ!? 藍様、紫様、見てくださいっ」
「……止まった?」

 ゆるげどもよもや抜けじの要石

比那名居天子の要石。地震、即ち振動を鎮める力が備わる。どう、嫦娥。地上の技術(テクノロジー)も莫迦に出来ないでしょう?」

 結界は再び、沈黙した。
 完全に沈黙したかに見えた



■東京・立川
「わかったわ」
 通信を切り、紫水晶アメシスト)色のスリムカードタイプの無線機を袖の下に仕舞う。パチュリー仕様の端末には魔力を通すことで作動する簡単な健康診断機能が付随しており、にとりが目下交渉中の八意永琳の端末に診断情報が自動/手動送信されるようになっている。
「小悪魔。私はこれから魔理沙達と組んで東京に対して強攻戦を行うわ。この多摩図書館を徴発し臨時に司令塔、ならびに最終拠点とする。立川以東からを全域戦闘攻略区域に指定。貴女は避難してくる妖精や妖怪を『穴』まで誘導して頂戴。邪魔だから」
「了解であります!」
 ヘッドギアと拡声器(マジカル☆トランジスタメガホン)を既に装備し、びし。と敬礼してみたりする。
「……ノリがいいわね」
 と、仕舞った無線機から受信コールが発せられる。アリスだ。
 ごっすんごっすんと煩い呼出音を止めて再び無線機を耳唇(じしん)に宛がった。「御機嫌よう人形使いテグザー)」

『時候の挨拶は省かせてもらうわ大図書館(アレクサンドリア)。東京の破壊を先延ばしにして頂戴』

「無理ね」お互い魔法使い同士。相手(アリス)が駆け引きを放棄するならこちらは応じるまでもない。「話はそれだけ? 時間が惜しいから切るわよ」

『待ちなさいパチュリー。貴女、こっちに来てから外来人に遭遇した?』
 パチュリーの意図を察し、アリスの声色が知人相手の会話口調からシフトする。魔法使い同士の探り合いに。
「おかしなことを訊くのね。その口ぶりだとどうやら貴女も東京に赴いてきているようだけれど、此処には生体は存在しない。結界内は完全に無人よ」
 言質は得た。
無人(Unmanned)。確かにそう云ったわね、パチュリー・ノーレッジ。動かない大図書館。いま貴女がカウントしたのは、生きている外来人の人数? それとも死者を含めた外来人の人数かしら?』
「!?」

 賢者は息を呑む。人形使いは何を云おうとしているのか。

火焔猫燐は知っているかしら。幻想郷の地下世界に住む火車の妖怪。この黒猫は東京で量産される屍体を目当てに東京入りを果たし、回収した大量の亡骸を地下構内に備蓄していたの。男性の死体。女性の死人。老人の遺体。子供の変わり果てた姿。赤子のむくろ。日本人の遺骸。外国人の死者。死亡者。事故死者。自殺者。他殺体。ボディ。それぞれを鑑賞しているうちにある一つのことに気がついた。扼殺(縊死)体が多く含まれていることに』
「待って、待ちなさいアリスっ」
 珍しく冷静さを失って声を荒げるパチュリーに、小悪魔が驚いて自分の無線機(ルージュ、ノワール配色)を取り出すと二人の通話に、パチュリー端末に介入する。聞き耳を立てる。
「答えなさいアリス・マーガトロイド! 貴女は今、何と戦っているの!?」

『一つの都市伝説。水面から溢れ出た無数の生白い腕が、生者を掴まえて引きずり込む。死者の妬み。嫉み。恨み。怨み。それらの呪いめいた概念が具現化したもの。但し、伝説とは違う』

『そいつは境界面から出現して、先ず最初に首を絞める。唯の人間ならいざしらず、私達なら撃退は容易いでしょう。でもそいつは退散するとき、敵の能力、或は技術といったものを掠め取る。――敵が誰か、ですって? そんなのこっちが訊きたいわよっ。便宜上、私達が命名したそいつ“百々目鬼(サハスラブジャ・ドゥルガー)”はあくまでも妖術であって、妖怪とかの類じゃない。妖術使いが何処の誰かなんてのはまったくもって不明のままよ。でも、いま東京を破壊してしまったら、結界が消滅してしまったら間違いなくこいつは解き放たれる。パチュリー。こいつをけして幻想郷入りさせてはならないわ。結界の檻がなくなった途端、私達の安住の地は殺戮の宴(キリングフィールド)と化す。立川の甲州街道で野良犬の死体を見なかった? あれは幻想郷の山野にいる飢えた低級妖怪の成れの果てよ。人里に降りる途中でこちらに迷い込んだのね。全身を喰いつかれて死んでいるのは、最初にそうやって野犬が百々目鬼を撃退したからよ』

「アリス。もしかして貴女は」推察は出来る。考察は可能だ。しかし確認は取らなければならない。「貴女は何を盗まれたの」

『人形を操る魔法技術』その声の色はどこまでもどす黒く、怒りに打ち震えていた。『あいつは私の術を使って、死体を、人の形をした成れの果てを操って襲わせてきたのよ。パチュリー。私は許さない。絶対に許さない。あいつを幻想郷に逃がすものか。私が追い詰め、私が斃す。だからお願い。力を貸して頂戴。東京の破壊を出来るだけ遅延して』



――【#1 『TOHO WAR』 03に続く】



■中書き
 はいはい1000行1000行。今回もまたパチュリーのターンで引きになっているのはべつだん狙っているわけではないのでありんす。それと、ざっと見直してみると各章の並びが時系列毎に並んでいるわけじゃねぇのですぜ、旦那。なんだってこんなヤヤコシイ構成になっているんだか。
 次回掲載時期はこれまた未定。リアルが忙しくて時間が取れないのがネック。



Mamdorcha さん江。
 はじめまして。鴉片です。一度はこの業界(つーのですかね?)から足を洗い、金輪際ナニかをメモ帳に打ち込む作業なんぞには向かわないものと自分も思っておりました。すべてはニコニコ動画にうpされていた東方缶蹴りが悪いのです。あれの二話目にあった、霊夢が缶を踏んづけているシチュから円筒状結界がどーのこーのと閃いてしまって、あとはこのザマです。愉しんで頂いているのならば幸いですが、書いてる張本人はちっとも面白味を自作に見出せないって、コレってどーゆぅワケなのよ。妄想作業自体は愉しいんですけどね。